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◆江美城 

 

【 概 略 】

鉄山(鉄穴及び製鉄)と開田(稲作)の技法を家伝とし、その経営に長けた伯耆の国人衆、蜂塚氏の一族で蜂塚安房守による築城と云われる。

1484年(文明16年)に蜂塚安房守が在城(鳥取県神社誌)したとされる江美城は舟谷川を挟んだ北側の銀杏ノ段に所在したとの記述も見え、現在「江美城」の本丸(天守)と推定される「城ノ上」は毛利氏統治の頃、吉川氏によって政庁として築かれた建造物を備えた郭と考えられる。

 

陰徳太平記などでは蜂塚氏滅亡時、江美城への総攻撃において毛利方の軍勢が銀杏ノ段兎丸、天狗ヶ瀧から鉄砲や弓矢による砲撃・射撃を行ったとあり、永禄年間に蜂塚右衛門尉義光が治めた頃の江美城の機能は銀杏ノ段から現在の場所(城ノ上、或いは上ノ段)へ移っていたと推測できる。

 

西に日野川、北に舟谷川、小江尾川、南に南谷川、奥市川が流れる舌状台地突端に所在しており、現在と流路が変わっている可能性はあるものの各河川を天然の川堀として利用し、東側には巨大な空堀を配することで防御力を高めていたことが地形から伺える。

現在の東祥寺が所在する位置から更に東には成道寺(成導寺、清洞寺)が所在したことが字名から伺え、成道寺と東の空堀を以って比較的手薄な東側の防衛力を強化していたことが推測できる。

毛利方の文書では「蜂塚要害」とも記されるが「城ノ上(或いは上ノ段)」「銀杏ノ段」など何処を示したかは不明。

 

蜂塚氏は古くから伯耆国の国人であったが後に尼子方と誼を通じたとされている。

当城が築城された頃(1484年頃)の日野郡は名目的に伯耆山名氏の支配下であったとされるが伯耆山名氏の支配力の衰退は顕著で、1433年(永享5年)には尼子持久によって亀福山光徳寺へ本堂、庫裡が寄進され寺領への諸役を免除したとする記録が残る。

亀福山光徳寺は現在の鳥取県東伯郡琴浦町公文に所在しており、この頃には尼子氏の権勢が伯耆国ほぼ全土に及んでいたことが伺える。

以上の情勢から当城の築城時期には既に蜂塚氏は伯耆山名氏に属しながらも尼子氏と深い関係を築いていた可能性が高い。

通説で当城は1524年(大永4年)の大永の五月崩れの後に尼子方へ恭順したと記されるが、この場合は40年以上(最長90年あまり)も形骸化した伯耆山名氏の支配下に属しつつも蜂塚氏は独立した勢力を保ったことになる。

 

1562年(永禄5年)頃、毛利氏の勢力が伯耆国へ及ぶと国人の多くが尼子氏を見限り毛利氏へと靡く中、蜂塚右衛門尉義光も毛利方へと降っている。

しかし同年11月、毛利氏に降った本城常光が謀殺されたとの情報が伯耆国にもたらされると毛利方に靡いた伯耆国人衆の多くが再び尼子氏へ恭順、蜂塚右衛門尉義光も同年~1563年(永禄6年)の間に再び尼子方へ帰順している。(日野の逆心と記される)

 

1564年(永禄7年)8月6日、毛利方の杉原盛重山田満重二宮杢介森脇右衛門尉らが3,000騎を以って江美城への総攻撃を開始、同年8月8日、城主の蜂塚右衛門尉義光は自刃し落城とある。(森脇覚書・三吉鼓家文書(永禄7年9月16日付杉原盛重書状))

 

陰徳太平記や伯耆民談記では毛利方の軍勢は1565年(永禄8年)8月朔日に美保湾から出撃となっている。

第二次月山富田城の戦い(1565年~1566年(永禄8年~永禄9年))では未だ江美城からの補給線が健在で月山富田城へ兵糧を運ぶことが出来たとあり、1565年(永禄8年)4月の毛利方による月山富田城への総攻撃も士気を維持した尼子方の奮戦により毛利方は撤退している。

同年8月に毛利方が江美城を攻略し月山富田城への間道(兵站)を封鎖、同年9月より再び月山富田城を包囲し兵糧攻めを以って攻略したとある。

 

蜂塚氏が滅亡後すると伯耆国から尼子方の勢力は駆逐され、日野郡一帯は毛利氏の所領となり蜂塚氏の築いた中世城郭は吉川氏によって近世城郭へと改修、城下町の整備も行われ政庁として日野郡内有数の規模を誇る城郭へと変化した事が推測できる。

「城ノ上」の天守台付近の遺構からは伯耆国唯一(山陰でも唯一)となる金箔鯱瓦の他、桐葉紋軒瓦などが出土している事から当城が豊臣政権下において重要な城の一つであった可能性が考えられている。

(金箔鯱瓦については当城に据え付けるためのものではなく、吉川広家が居城とした月山富田城や新たに築城していた伯耆国米子城に据え付けるため輸送し保管していたところ、文禄・慶長の役や関ヶ原の戦いなどの騒乱が短期間に重なり、豊臣秀吉の死去と共に放置・廃棄されてしまった可能性も)

 

伯耆街道と日野街道の分岐点に所在し、伯耆と美作を結ぶ交通の要衝でもあったことから宿場町としても栄え、上東屋敷、下東屋敷、上西屋敷、中西屋敷、下西屋敷、新町南屋敷、新町北屋敷、寺前、宮ノ前など城下町の形成を伺わせる小字も多く残る。

 

土井ノ内には歴代城主、蜂塚氏の居館があったとされるが、恐らくは四代目、蜂塚右衛門尉義光の頃の居館と考えられる。

古くは「えび」ではなく「えみ」と呼ばれていたと伝わり、古文書にも「江見」との記載が見えたり、陰徳太平記でも「江美之城」には「エミ」とルビがある。

【 遠 景 】

兎丸(南側)からの遠望

主郭(本丸)と天守台

八幡丸の模擬櫓

【 縄張図 】

江美城略測図

鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)

【 概 要 】

名 称江美城(えびじょう/えみじょう)

別 名:江尾城(えびじょう)、江見城(えみじょう)、江尾要害(えびようがい)、蜂塚要害(はちつかようがい)

所在地:鳥取県日野郡江府町江尾字城ノ上

築城年:1484年(文明16年)頃

廃城年:1611年(慶長16年)頃

築城主蜂塚安房守

城 主:(伯耆山名氏)蜂塚安房守蜂塚三河守蜂塚丹波守(尼子氏)蜂塚安房守蜂塚三河守蜂塚丹波守蜂塚右衛門尉義光藤井蔵人(毛利氏)蜂塚右衛門尉義光(吉川氏)生山某荒木刑部今田左衛門尉吉田佐太郎藤井蔵人佐々木四郎太郎(中村氏)林文太夫矢野正倫

形 態:平山城

遺 構:郭跡、堀切、空堀、土塁、虎口、土橋、列石遺構、枡形虎口、櫓台

現 状:畑地、水田、山林、上之段広場、江美神社、東祥寺、山村開発センター、資料館など

種 類:江府町指定史跡

登城難易度⇒★★(普通)※場所・季節によって変化あり

【参考文献】

陰徳太平記、伯耆志、伯耆民談記、伯耆民諺記、因伯古城跡図志、森脇覚書、吉川広家功臣人数帳(1617年)、米子史談、江府町の文化財探訪問(第1集)、江府町史(昭和50年12月発行:江府町史編さん委員会)、新修江府町史(平成20年6月発行:江府町史編纂委員会)、日野郡史 前篇(昭和47年4月 日野郡自治協会)、新修鳥取県神社誌 因伯のみやしろ(平成24年6月 鳥取県神社誌編纂委員会)

【 地 図 】

【 年 表 】

年号 西暦 出来事

文明16年

1484年

鉄山と開田の技術に長けた国人衆、蜂塚氏の一族、蜂塚安房守による築城と伝わる。

大永4年

1524年

大永の五月崩れでは伯耆国内の諸城が次々と落城する中、当城も尼子方へ属したと伝える。

蜂塚安房守の頃より尼子方と誼を結んでいた可能性も。

天文5年 1536年 蜂塚右衛門尉藤井蔵人が居城とある。(日野郡史 前篇)

永禄5年

1562年

毛利氏が出雲国への侵攻を開始、伯耆の国人衆は相次いで尼子氏から離反し、当城も毛利方へと属した。

11月5日、毛利氏に降った本城常光が暗殺される。

永禄6年

1563年

本城常光らの粛清が伯耆へ伝わると先に毛利方へ降った元尼子方の国人衆の多くは再び毛利方を離反。

当城の城主、蜂塚右衛門尉義光も再び尼子方へと属している。(1562年からの出来事とも)

永禄7年

1564年

8月6日、毛利方の武将、杉原盛重山田満重らが総攻撃を開始。

8月8日、蜂塚右衛門尉義光は一族とともに自刃し落城とある。

※永禄8年(1565年)との説もある。

永禄年間

天正年間

不明

吉川氏によって近世城郭への改修が施されたと云われる。

蜂塚氏滅亡後は吉川家の武将、佐々木四郎太郎が城番として任じられたと記される。(吉川広家功臣人数帳)

慶長6年

1601年

関ヶ原の戦いでの功績により中村一忠が伯耆国領主となると矢野正倫が城番として任じられた。

慶長16年

1611年

この頃に廃城されたと伝わる。

【 写 真 】(訪問日:2013/11/24、2015/08/28、2016/04/12)

字「上ノ段」蜂塚義光時代の本丸候補地

上東屋敷上岸の石垣

八幡丸(模擬櫓)への登城道

八幡丸東側に石垣と口

本丸と二ノ丸(西ノ丸)を隔てる堀切

二ノ丸(西ノ丸)

二ノ丸の虎口

二ノ丸から主郭(本丸)の眺め

二ノ丸の北の人枡

人枡の土塁

人枡の土塁上には蜂塚氏の首塚と云われる祠

主郭の様子

天守台跡

天守台の虎口・土塁・列石遺構

天守台には石段

天守の井戸跡

天守台から本丸と二ノ丸の眺め

本丸東側の土橋

土橋北側の空堀内は東祥寺

土橋南側の空堀内は3段の連郭(畑地)

土橋南側空堀の高低差

土橋南側空堀の連郭には石垣跡

江府町役場裏の登城道

木クビ(ヲクビ)の礎石

蜂塚氏も武運長久を祈った江美神社

上之段公園(字上ノ段)

上之段公園の石垣

上東屋敷には石組みの井戸跡

土井ノ内には歴代城主の居館があったと云われる

土井ノ内(現在は山村開発センター)

東祥寺(字土居の内)

東祥寺の門構え

【同好会活動日誌】

因伯古城跡図誌には凄く簡単に描かれてる城だけど…。

銀杏ノ段丸兎丸、城ノ尾丸といった出城が多く、凄く広いお城だね。

調べていくにつれて判ってきたことがあるけど、銀杏ノ段は初代蜂塚氏が築城した江美城とも考えられるそうよ。

元々江美神社も銀杏ノ段にあったようなので、武運長久と城塞鎮護を願ったとすると「元祖江美城=銀杏ノ段」の説はかなり

信憑性が高そうね。

 

銀杏ノ段は旧江美城、兎丸には宇佐木隼人正(宇佐木弾正)、城ノ尾丸には藤井内蔵(藤井蔵人)が在城とあるので、

この3城については改めて独自の城として紹介する予定よ。

他にも調べていくと「お市坂のお市五輪」「清洞寺跡」など江美城に関係のありそうな場所も結構見つかったね。

本丸で出土した山陰で唯一の”金箔鯱瓦”についても吉川時代の江美城が豊臣政権化で重要な位置付けであった事もわかったし、

調べれば調べるほど面白いね。

金にまつわる遺物が発見されるということは豊臣秀吉と何らかの関係があったのは間違いないでしょうね。

吉川時代だと吉川広家生山城に居城していた時期があるので、そちらの城ともセットで考えたいわね。

 

金箔瓦に関しては全国的にも発見例が稀な上、今のところ”山陰唯一”の出土品というのは間違いないのは貴重よ。

鳥取県の宝として情報発信していけば良いと思うけどね。

 

関係する武将についても杉原盛重に攻められ尼子に殉じた蜂塚義光は大変良い城主として慕われ500年経った今でも城主の蜂塚義光を偲んで江尾十七夜が催されいて、鳥取県指定無形民俗文化財に指定される”こだいぢ踊り”が受け継がれているそうよ。

 

尼子への信を貫き義に殉じた。

悲劇の武将(お城)と云われるけど、神算鬼謀が飛び交い、裏切りや寝返りが日常にあった戦国時代において、義を貫き通した姿勢が領民の心を捉えたからこそ、今日まで受け継がれているのかもしれないわね。

 

ただ、この義を貫いた蜂塚氏の描写は陰徳太平記などで物語的に書かれている側面もあり、本常親子の粛清や生山城の

山名氏の処遇(後に日野の逆心とまで云われる)を見て毛利氏に頑として従わなかった可能性も残るので資料の発見によっては若干変わるかも知れないわね。