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HOME > 伯耆古城図録 ~西伯郡大山町・大山町中山・大山町名和篇~ > 大山町 > 福尾城

◆ 福尾城

【 概 略 】

福尾集落では「城山(じょやま)」と呼ばれる山に城砦が所在したとされ、堀跡、上屋敷(かみやしき)の地名が残る。

続大山町誌での記述では新谷能登守の居城跡とされている。

 

元寇(1274年(文永11年)の文永の役、1281年(弘安4年)の弘安の役と二度にわたる蒙古襲来)に対する海岸線の防衛拠点として伯耆国富長城、伯耆国長野城、伯耆国末吉城などと同時期に築城された城砦と考えられている。(大山町誌、淀江風土記)

地元の伝承では某城(伯耆国小波城)の支城(出城)とされる話が伝わっていた。

 

地名となっている福尾の「福」の字には中国が秦の時代、不老不死の薬を求め日本に流れ着いたと云われる「徐福」伝説に因む伝承も残る。

 

島津又七郎家久の伊勢参詣道中記を記した「中務大輔家久公御上京日記」には当城を示すと思われる記述が見える。

 

1575年(天正3年)6月20日

「廿日、朝立、はやなせといへる城有、其町を過行に(略)」

 

島津一行が上陸した湊、「大つか」の場所が特定されると当城が「はやなせの城」と呼ばれた可能性も出てくる。

また、1575年(天正3年)まで廃城されていない事にもなる。

 

※「はやなせの城」を「八橋(やなせ)の端(は)の城」と解釈するなら伯耆国石井垣城の可能性もあり、町と云う表現から規模として福尾村よりも岩井垣村や潮音寺村(あるいは双方を併せた表現?)の方が町と呼ぶには相応しいとも考えられる。

「はやなせ」を八橋の九州なまり、或いはその筆記に、また、原文の訳し方を「廿日、朝立は(あさたつは)、やなせといへる城有(略)」とすると伯耆国八橋城を示す可能性もある。

※福尾城の城域は全て個人所有地となります。所有者の許可無く登城はされないようお願いします。

【 遠 景 】

主郭は畑地へ改変

阿弥陀川側から見た主郭

主郭南東の一段高い方形区画

主郭東側は阿弥陀川が流れ断崖

【 見どころ 】

主郭とニノ郭の堀切(主郭西側の空堀状の溝跡)

東の阿弥陀川を川濠として西方面に多段の郭を連ねた連郭式の縄張りと推測されます。

郭と郭の間に溝状の遺構が見えることから堀切であると考えられますが、住宅や畑、国道9号の建設により城域の多くが破壊されていること、堀切が南方向へ登っていることから竪堀の可能性もあります。

近年まで国道9号へ抜ける通路と使われたとのことですが、堀切の形を今も残しています。

【 概 要 】

名 称福尾城(ふくおじょう)

別 名:はやなせの城、やなせ城

所在地:鳥取県西伯郡大山町福尾

築城年:1274年(文永11年)以降 ※蒙古襲来以降の築城か?

廃城年:不明(1575年(天正3年)以降?)

築城主:不明

城 主新谷能登守

形 態:平山城

遺 構:郭跡、空堀、堀切、土橋(郭跡は畑地に改変、東側の空堀は通路に使用)

現 状:畑地

種 類:文化財指定なし

【参考文献】

・中務大輔家久公御上京日記

・大山町誌(昭和55年10月 大山町誌編さん委員会)

・続大山町誌(平成22年9月 大山町誌編集委員会)

・淀江風土記(1989年 淀江町)

【城娘】

 

【 縄張図 】

【 地 図 】

【 年 表 】

年号 西暦 出来事

文永年間

弘安年間

不明

~戦国時代

不明

天正3年

1575年

6月20日、島津家久が伊勢参詣の道中に城下を通過した可能性がある。

【 写 真 】(訪問日:2013/12/01)

主郭南東側の一段高い方形区画

方形区画

主郭から阿弥陀川(北東側)

主郭から阿弥陀川(南東側)

土橋

主郭の堀切(土橋より南側)

主郭の堀切(土橋より北側)

主郭西側の堀切は生活道路跡

堀切を挟み主郭西側に所在する西ニ郭

西ニ郭も畑地として改変

西ニ郭西側の堀切は東側に比べ浅い

西ニ郭西側の堀切

西ニ郭西側の堀切

西ニ郭西側の堀切

西ニ郭西側の堀切

(おまけ)集落内に石垣が残る

(おまけ)石垣は社殿跡の礎石?