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HOME > 伯耆古城図録 ~西伯郡篇~ > 古寺生松城 > 同好会活動日誌

◆古寺生松城【訪問日:2014/10/12】 登城難易度⇒★★★(難しい)

【 概 略 】

伯耆志の二部村の条、古城の件に以下の記述が見える。

「一は土居山と称す。事蹟詳ならず」

 

郷土史「ふる里 野上の郷」では二部上要害二部下要害を合わせて「要害山」としており、

字古寺生松城周辺の丘陵が「土居山」と考えられる。

鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)では伯耆国二部上要害の北側郭跡を居館跡と

推定しているため、伯耆国二部上要害の所在する場所が「土居山」の可能性も。

 

溝口町誌では

「字古寺生松城にあり。西に面する地。左衛門(尉)実基の居城跡と云う」

 

城主とされる左衛門尉実基について溝口町誌では官位と諱のみの記述だが、

この左衛門尉実基とは後藤左衛門尉実基(實基)の事とも考えられる。

室町の頃、後藤左衛門尉実基が二部奥の地(二部宿字中寺)に寺を移し天寧山傳燈寺を号したとされ、

後の兵火に遭い堂宇、城郭(当城)共々失ったが後藤左衛門尉基清によって再建とある。

※「ふる里 野上の郷」では”左衛門尉実清が再建するも廃頽”とあるが左衛門尉基清の事と思われる。

 

1573年頃(天正元年頃)、織田氏と対立した事により越前朝倉氏が没落すると越前朝倉氏に仕えた

足羽将監の一族が二部村に入ったとあり、これまでは後藤氏が当地を治めたと考えられる。

足羽氏一族が二部村へ入る件には諸説あるが、この頃からの後藤氏の動向は不明となる。

足羽氏の頃にも天寧山伝燈寺は廃頽していたが足羽将監重成によって外護修復が行われたとある。

【 遠 景 】

南西側からの遠景

道路を隔てた南東側からの遠景

【 概 要 】

名 称古寺生松城(ふるでらいくまつじょう/ふるでらおいまつじょう)

別 名二部要害城(にぶようがいじょう)、二部土居山城(にぶどいやまじょう)

所在地:鳥取県西伯郡伯耆町二部(字古寺生松城)

築城年:不明(天寧山傳燈寺の建立と同じ頃と考えられる)

築城主後藤実基

城 主:所属不明(藤原氏?)…後藤実基後藤基清後藤氏

    所属不明(毛利氏?)…不明(足羽氏?)

文 献:伯耆志、日野郡史、溝口町誌、ふる里 野上の郷(平成11年12月20日 溝口町二部公民館 著)

    溝口町制施行40周年記念 文化財ガイドブック ふるさと溝口(1993年 溝口町教育委員会編)

    鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)

形 態:平城

遺 構:郭跡、腰郭、帯郭、土塁、切岸、虎口?、櫓台?、空堀或いは竪堀(堀切、横掘)?

現 状:山林、畑地

種 類:史跡指定なし

【縄張り】

古寺生松城略測図

鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)

【 地 図 】

【 年 表 】

年号 西暦 出来事

応保2年

1162年

後藤左衛門尉実基が二部奥の地(二部宿字中寺)に寺を移し、

天寧山傳燈寺を号した。

建保4年

1216年

天寧山傳燈寺が兵火に遭い堂宇、城郭共に灰燼荒朽とあり、

後藤左衛門尉基清によってこの年に再建されたとある。

(ふる里 野上の郷)

永禄年間

1558年

1569年

越前足羽将監重成が二部要害山(二部下要害)に来城とあり、

天寧山傳燈寺を外護修復したとされる。

【 写 真 】

南側の郭跡は農道によって改変を受けており

道路沿いに切岸跡が見える箇所も

農道南側の郭跡(左側の茂み部分)

南側郭跡の南側は天然の川堀

農道途中にある登城道

本来は主郭から南側へ通じる道と思われる

登城口には虎口?

北側の谷に向かって配された土塁

土塁の上から

土塁北側には細い帯郭が配置

谷側からの攻め手に対し緊張を緩ませ油断を

誘う心理的効果を与える郭と考えられる

主郭と土塁

主郭の様子

北側への防御に特化している

主郭の様子(西側から)

主郭の様子

主郭北側の土塁

主郭北側の土塁下の腰郭

主郭北西の腰郭(上段)

主郭北西の腰郭(下段)

主郭北西腰郭と西の櫓台を隔てる溝

自然地形なのか堀切・空堀など人工物かは不明

西の櫓台と思われる方形の高台

櫓台と思われる方形郭跡の様子

櫓台?の方形郭跡北側(犬走り)

櫓台?の方形郭跡北側(犬走り)下の腰郭

北西郭跡の様子

北西郭跡から櫓台?の高台

主郭南西の土塁

【同好会活動日誌】

当城については不明な点が多いけど、3城が所在する距離的な関係からも

当城、二部上要害、二部下要害の3城を合わせて「二部城」と云う可能性も

考えられるわね。

場所はわかり難いけど遺構の状態はかなり良好だよ。

北側の土塁まで辿り着ければ土塁の上を歩いて一直線で主郭まで辿り着けるよ。

 

その先にある堀切のような…空堀のような…横掘のような…竪堀のような…

ひょっとすると自然地形かも知れないけど、主郭と北西の郭を断ち切る堀状の

遺構も見所だね。

この堀状の遺構が人工物であったなら大手は北側かな?

城の造りは北側への防御に特化した遺構の配置なので

堀状遺構の近辺には虎口が配置されていたかもしれないわね。

そうなると北西の郭跡にある方形郭跡が櫓台と特定もできるし。

何度も言うようだけど場所がちょっと判りにくいよね。。。

少し整備をしてあげれば良好な遺構が残る城跡なんだけどな~。

 

武将に関しても後藤又兵衛の先祖と縁がある城跡みたいなので

関連付けていけたら良いのになー。