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HOME > 伯耆古城図録 ~西伯郡篇~ > 柏尾砦 > 同好会活動日誌

◆柏尾砦【訪問日:2013/06/16】 登城難易度⇒★☆☆☆☆(易しい)

【 概 略 】

現在の福田正八幡宮を中心として吉川広家が伯耆国米子城の隠し城として建造されたと云われる。

隠し城とされる性質上、城に関する情報は長く秘匿されていたが、

当時の旧街道跡とされる鳥居から続く道に隣接する高台には矢場が配されていたとも伝わる。

境内の郭跡には部隊を収容するための広い空間が設けられていたとされ、現在も名残が残るとされる。

社務所や社殿は兵の詰め所も兼ねていたと伝わり、社務所南側にある畑地は昭和の始め頃までは

腰まで沈む沼地であったとも云われる。

 

伯耆国米子城から当砦までは最短の隠し道が山道に存在したと云われ、

伯耆国米子城が落城した場合は伯耆国米子城の代替拠点として機能するよう設計がなされており、

更に当砦も落城し兼ねない事態となった場合、城主が速やかに吉川氏の本拠地であった

出雲国月山富田城へ退却できるよう、当砦~新山要害~広瀬へ抜ける隠し道も存在したと云われる。

 

尚、ここより200mほど南には伯耆国小鷹城が所在する。

吉川広家が米子の湊山へ新城を築城した際、伯耆国小鷹城の天守建物が伯耆国米子城

移設されたという説(信憑性は限りなく低い説とされるが…)も存在することから、

伯耆国米子城の代替城とされたのは伯耆国小鷹城で、当砦は伯耆国小鷹城の城域内に所在した

出城の一つであったとも考えられる。

 

毛利氏と尼子氏が西伯耆で覇権を争った時代の会見郡は激戦の地であり、山々には両陣営の砦(固屋)が

無数に存在した事も文献には散見でき、その砦群の中でも特に重要な砦の一つと推測される。

 

※ちなみに柏尾砦は仮称です。この地に所在したことから当企画では「地名+砦」を表記しています。

 また、福田正八幡宮の相見様より許可を頂き、今回の登城・探検を行っています。

【 遠 景 】

広瀬方面へと続いた旧街道

福田正八幡宮さん

左に見える畑がかつての沼地

【 概 要 】

名 称柏尾砦(かしおとりで)※仮称

別 名:墓場城(はかばじょう)、第二城(だいにじょう※米子城の隠し城の意味)

所在地:鳥取県西伯郡南部町福成

築城年:天正年間

築城主吉川広家

城 主:毛利氏…山田重直

    吉川氏…山田盛直

文 献:福田正八幡宮の栞、相見家と庭園、鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)※場所のみ

形 態:平山城

遺 構:郭跡、堀、石垣、井戸跡

現 状:福田正八幡宮、山林

種 類:史跡指定なし

【 地 図 】

【 年 表 】

年号 西暦 出来事

不明

不明

創立は不明であるが、稲田姫命を祀った福田ノ社があり、

福貴幸福の神として地名を福田保(庄)と云った。

建久年間

1190年頃

源頼朝公の伯耆国に勧請せる八幡宮として

「福田ノ庄ノ大社、正八幡宮」と称した。

福田庄は500石の神領と13ヶ寺の新宮寺を領したとされる。

戦国時代

1400年代

1500年代

伯耆山名氏、尼子氏、毛利氏と時の権力者が移り変わる度、

角遂の難に遭い社殿は荒廃したとある。

天正18年

1590年

伯耆国米子城の城主、吉川広家より社領553石の加増寄進が行われ

本殿が再建された。

本殿再建と併せ、上方からの侵攻による伯耆国米子城の落城時を

想定し、出雲国月山富田城への退路を確保するための砦が秘密裏に

建造されたと云われる。

この後、幕末まで周防国岩国城主の吉川家より銀幣の奉饌が行われた。

江戸時代

1600年代

因伯初代藩主、池田光政より八棟造神輿が寄進された。

明治元年

1868年

太政官布達(神仏判然令)神祇官令によって「神田神社」と改める。

昭和54年

1979年

「福田正八幡宮」と旧称に復した。

【 写 真 】

旧街道沿いの境内の様子

旧街道沿いの境内の様子

旧街道沿いからの高台

この辺りに矢場があったとされる

旧街道沿いには石垣も

境内北側の山中にある方形の郭跡

見張り櫓を置いた郭跡かも?

境内北側の山中にある方形の郭跡

境内北側の山中にある井戸跡

※この辺りまでの登城は少々厳しい

境内北側の山中にある礎石跡

※この辺りまでの登城は少々厳しい

福田正八幡宮の庭園

福田正八幡宮の庭園

福田正八幡宮の庭園の池

福田正八幡宮の庭園の眺め

福田正八幡宮の相見様のご厚意により庭園を見せていただきました。(一般公開はされていないそうです)

当時の徳川政権下では身分格式に厳しく一般的には庭を持つことを禁じられていました。

福田正八幡宮は朝廷から賜った所領(神領地)であったため、幕府や藩からの干渉受けることは無く、

今日まで庭園を有することができたと云われています。

庭園も素晴らしいですが相見様の住宅も大変貴重な建物であり、古代豪族の紀氏に由来があるとも

云われます。(相見様も紀氏の末裔とのこと)

そのために学術調査や国宝など文化財指定のために県の人や学者さんなどが来ることもあるそうですが、

現時点では文化財への登録はお断りしているそうです。

―同好会活動日誌―

現在の福田正八幡宮が鎮座する場所に当時の米子城の城主であった吉川広家

極秘裏に建造した砦があったそうよ。

この辺りの地名が”柏尾”なので私達は”柏尾砦”と呼ばせてもらうわ。

ここは小鷹城を探して最初に辿り着いた場所だよね。

鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)ではこの位置に図示があって、

絶対この北側の山奥に城跡があるに違いない!

と、意気込んで挑んだワケなんだけどね。。。

恐らくだけど、この柏尾砦は小鷹城の出城の一つで、その出城の中でも

一番重要な施設じゃなかったのかしら?

文献にはほとんど見えないけど、口伝には多く残っているように思えるし。

 

ちなみに”柏尾砦”は仮称で福田正八幡宮の相見さん曰く、別名は”墓場城”とも

云われるらしいわよ。

この辺りは戦国時代、毛利氏と尼子氏の激戦の地でもあったそうで、

周辺のいたるところに五輪塔やお墓があったそうよ。

 

それと福田正八幡宮を中心に築かれた砦は”米子城の隠し城”(もしくは第二城)

とも呼ばれていたそうで、

伯耆国米子城と出雲国月山富田城を結ぶ中継地点でもあったみたいね。

もっとも”隠し城”という性質上、敵に知れるなんてのは論外。

知っていた人達も長年の間、砦の存在を秘密にされていたそうよ。

ウソかホントか知らないけど、吉川広家が湊山に新しい米子城を造ったとされる

言い伝えの一つに「小鷹城の天守を移築した」ってのがあるもんね。

小鷹城米子城は重要な関係にあったことが伺えるよね。

あとはこの柏尾砦。

当然、小鷹城と連携して運用されていたのは間違いないみたいで、

この砦から新山要害山城(島根側は安田要害山城長台寺城)を通って

出雲国、月山富田城方面へ抜ける隠し道もあったみたいよ。

もしも米子城が落城するような場合はこの砦(或いは小鷹城)を米子城の変わりに

政庁とし、さらに攻められて吉川氏の山陰の本拠地、出雲国の月山富田城まで

退却せざるを得ない場合は小鷹城村尾城の兵力とあわせて迎え撃ち、

その間に殿様(吉川広家)を出雲国へ逃がす役割もあったみたいね。

島津家の捨て奸じゃないけど、殿様を逃がすための城なんて。。。

秘密にされて日の目を見ない砦なのに凄く重要な砦だったんだね。

更にこの砦には米子城へ続く最短の隠し道が山中に存在したみたいよ。

今の180号線とは別に直線で約4Kmの道が通っていたみたいで(これも秘密)、

米子城が攻められた場合は速やかに援軍の派兵ができる設計だったそうよ。

 

この時の仮想敵が上方の織田氏、後に豊臣氏。

となると、この砦の設計は尼子氏が滅びた後ということになるかしら。

敵は間違いなく東から攻めてくるだろうと考えた上で吉川広家は、

もしも米子城が攻められたら…もしも米子城が落とされたら…。

考えられる全ての状況を分析して米子城とその周辺各城の整備を行った吉川広家

智将と呼ぶに相応しい武将という事が地元でも証明される言い伝えじゃないかしら。

さすが、毛利元就のお孫さんだね。

砦の事はこの辺にして、続いては今回お話を伺った福田正八幡宮さんのお話。

急に押しかけてお話を聞かせていただいた上に、お庭まで見せていただいたのよ。

※一般公開はされていないそうなので見学希望の方は事前に問い合わせてみてね。

綺麗な庭園だね~。

面積は約160坪の池泉回遊式、蓬菜庭園と言われるみたい。

日本庭園発祥の亀池神島を模していて、池中の島には神々が祀ってあるそうよ。

客殿の裏にあるけど元々は客人のための庭ではなかったようで、近年まで一般に

公開することもなかったと云われているわ。

 

作庭時期は不明で、1715年(正徳5年)に増築された建物の一棟(客殿)が庭園の

眺めを取り入れる茶室風に付け加えられたとあるので、それ以前の作庭みたいね。

ちなみにこの池、以前は屋敷の外側に張り巡らせてあった堀が原型みたいだけど、

戦が終わって太平の世になると堀は埋め立てられて、取水泉の一つだった泉を

池として改造したみたいね。

おおぅ、予想以上にありがたいお庭なんだね。

そうそう。かなりありがたいお庭なんですよ。

 

さて、続いては文化財候補の相見家屋敷の紹介に移りましょうか。

といっても現在も住まわれているお屋敷なので写真は無しで説明だけね。

なんでも歴史的に凄く貴重な建物らしく、学者さんが調査にやってきたり、

お屋敷を文化財にして欲しいと県の人なども頼みに来るみたいだね。

まずは建築年代が1616年(元和2年)の8月。

生活の場でもあったから時代によって多少の変更や修繕がされているけど、

それでも400年以上前の建物が現存していることになるわ。

 

庭でも触れたけど、庭に面した元茶室風の付棟が1715年(正徳5年)の

増築箇所みたいね。

武者隠しや割竹天井(やまと天井)、御簾を吊るした上間に加えて、

手斧削りの柱や戸板があるみたいで…なんだか面白そうだね。

式台や上湯殿、下男下女部屋などは時代の移り変わりの中で改造・撤去されて

無くなっちゃったんだって。

この建物は元々客殿として使われていたみたいで、明治の初め頃に住居として

改造されたそうよ。

その後も昭和に台所が追加されたとあるわね。

ねーねー。

凄く年代を感じさせる門があるよー。

これもお屋敷と一緒で由緒ある門なのかな?

…あ、それは「打ち首門」って云われる表門よ。

う、打ち首?

人死にとかあったの?

「打ち首門」といっても、

「無言で入れば盗賊と見なされて打ち首にされても仕方ないから」

という話からつけられた別名らしいので、多分…大丈夫。 多分。

た、多分…ね。

大事なことだから2回言ったよね。

昔はこの門の横に番小屋があったみたいで、表門を通るときは必ず門番の人に

声をかけて許可を得てから入らなければいけなかったそうなの。

(”訪のう声”と云われる)

実際に不審者がやってきて斬られたかどうかはわからないみたいね。

みんな一声かけてますように。。。

てか、門番が居なくても門を閉めちゃえばいいのに。

あ、この門の門扉は最初から付いていないそうよ。

徳川時代の幕府や藩の役人は屋敷内への出入りを禁じられていたそうなの。

そこで一種の駆け込み寺(駆け込み屋敷)のような意味合いもあったそうで、

昼夜いつでも入れるように門扉は無く、開け放たれていたと伝わるそうよ。

もちろん、一声かけないと打ち首だけどね。

それって…絶対に何人か斬られてるよ。

きっと。

庭の方でも触れたけど、注目する点は朝廷から五位の権中納言格を叙されていて

幕府からも藩からも干渉を受けなかったってのは興味深い話よね。

(藩からは五騎の将、百人の士を領する上士格の待遇)

 

また機会があれば是非とも伺ってお話を聞かせていただきたいわね。