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HOME > 伯耆古城図録 ~西伯郡篇~ > 小松城

◆小松城

 

【 概 略 】

伯耆誌の宮谷村の条、城跡の件に以下の記述が見える。

「城跡、村の東の岡なり。五輪塔あれど伝承ならず」

 

元弘の変の後、南北朝時代には名和氏に協力し天皇方として足利方勢力に対抗した在地豪族、小松氏の居城であったと伝わる。

 

出雲千家家文書には以下の記述が見える。

出雲国造舎弟六郎貞教、去六月十九日伯州馳向長田城、於搦手致合戦忠候、同月晦日同□馳向小松城、大手致合戦忠節候之処、

若当高木又次郎右足被討候畢、軍御奉行御見知之上者、給御判為備後証、粗言上如件 建武三年七月 ※□は判読不明だが「国」であるとされる。

 

塩冶高貞の軍忠状には1336年(延元元年/建武3年)6月30日(晦日)、出雲国造孝時の舎弟、六郎貞教(貞孝とも)の軍勢から攻撃を受けた際に

小松氏率いる守備隊と大手門付近で激しい戦闘が行われ、その日のうちに落城したと伝わる。(出雲千家家文書)

一説には付近の主だった名和方の将兵は名和長年と共に京都方面への戦いに赴いており、当城の防衛には老兵や女子供しか残されておらず、

2時間足らずで落城したと考える向きもある。

 

出雲国造の軍勢は先立って伯耆国長田城を搦手から攻撃しているが、当時は大手以外からの攻撃を

「如何なる理由があれど、仮に勝利を得ても謗りを免れない卑怯な戦法」であったと蔑視しているため、当初は謀を以って伯耆国長田城を陥としたと

考えられるが、この時に名和方の領する諸城の戦力が手薄と悟ったのか、伯耆国長田城とは施設も規模も違ったと考えられる当城へは大手(正面)から

正攻法で攻撃を仕掛け落城させたと伝わる。

※伯耆国長田城妻木晩田遺跡内の松尾城地区に所在したとされる伯耆国松尾城と考えられている。

 また、一説には長田荘に所在した伯耆国法勝寺城とする説もあるがこちらの説は当時の勢力関係や地勢・地形が殆ど考慮されておらず説得力に欠ける。

 

1336年(延元元年/建武3年)6月30日に落城とあるが、同日には京都大宮で名和長年らが戦死したと云われる。

落城後、城主とされる小松氏の動向は不明であるが、記述も見られなくなることから盟主を失った名和氏と共に没落していったと考えられる。

同年、天万の地頭、小早川道円がいち早く足利尊氏から所領安堵を受けている。

 

後に塩冶高貞高師直の讒言によって謀反の罪を被せられ、鎌倉幕府軍から遣わされた討伐軍では山名時氏が活躍し、

これまで伯耆を支配した名和氏・石橋氏の勢力を排除し山名氏が基盤を整えたとある。

 

天正年間には毛利家の家臣、馬屋原氏の居城であったと云われる。(平凡社『鳥取の地名』)

城主とされる馬屋原氏に関しては雲光寺への書状に馬屋原河内守俊久の署名と花押が記されている。

「馬屋原氏又毛利氏の臣なり」(天正11年3月5日、伯耆志 小松村 雲光寺の条)

 

城館に関係する地名として「城越」「土居敷」「土井」「弓場」「伝馬場」「トイ口」の旧字が残る。

名和氏の頃から周辺ではたたら製鉄が行われていたとされ、製鉄・鍛冶(たたら場)に関係する地名に「吹屋山」「カナ場」「金突」「金突山」

「上金突」「下金突」「上吹屋」「下吹屋」などが残る。

 

江戸時代頃には主郭にたたら製鉄の吹屋が置かれたと云われ「吹屋山」の旧字が残るが主郭からはカナクソなどたたら製鉄に関する発掘物は

一切出ていないと云う。(南の出丸付近では現在でもカナクソを見つけることができる)

 

外堀(濠)とされた川名は「宮谷川」「小松谷川」と資料によって記述が異なるが、どちらの川も利用されたと考えられる。

現在、城跡に一番近い川の名称は「金田川」となっている。

【 遠 景 】

土居敷(西側)からの遠望

弓場橋を渡り南側からの遠望

ツツジが咲き誇る初夏の二の丸遠望

【 縄張図 】

小松城略測図

鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)

【 概 要 】

名 称小松城(こまつじょう)

所在地:鳥取県西伯郡南部町金田(字吹屋)

築城年:不明

廃城年:不明

築城主小松氏

城 主:名和氏…小松氏

    尼子氏…佐々木伊予守

    毛利氏…馬屋原俊久

文 献:出雲千家家文書、伯耆志、会見町誌、山陰史跡ガイドブック第1巻 山陰の城館跡(改訂版)

    米子史談、伯州六郡郷村帳(文政11年)、鳥取神社誌、鳥取の地名(平凡社)

形 態:丘城

遺 構:郭跡、土塁、虎口、空堀、堀切、切岸、横堀、竪堀、井戸跡

現 状:畑地、山林、公園

種 類:南部町指定文化財(平成16年10月1日指定)

登城難易度⇒★★(普通)

【 地 図】

【 年 表 】

年号 西暦 出来事

建武2年

1335年

10月、出雲国守護、塩冶高貞足利尊氏へと寝返る。

建武3年

延元元年

1336年

6月、塩冶高貞(出雲国造軍)による伯耆侵攻が始まる。

6月19日、出雲国造軍、伯耆国長田城(松尾城)を攻略。(搦手(左方)から攻めたとある)

6月30日(晦日)、出雲国造の軍勢が当城を正面から攻め入ると大手門前で小松氏の部隊と激戦を繰り広げ、

同日中に落城させた。

天正年間

不明

天正年間は毛利氏の家臣、馬屋原氏が居城としたと云われる。

【 写 真 】(訪問日:2014/02/22、2014/06/15、2016/05/02】

集落側の旧案内標識(現在は城跡案内板がある)

平成26年3月に城跡の案内板が新調

案内板より集落側の弓場橋からが判りやすい

西側郭跡群(土居)のL字型土塁

土居から続く登城道は虎口で櫓門を配したとも

虎口に備えた櫓台の郭跡

櫓門付近の二重空堀の土塁

櫓門付近の二重空堀(東側)

櫓門付近の二重空堀(西側)

西側二重空堀の先は袋小路

主郭下の空堀(東側)

主郭下の東側空堀内の土橋(段状の高低差?)

主郭下の東側空堀の土塁

主郭から北東の空堀にある袋小路

主郭下の空堀(北側)

主郭下の空堀(北側)

主郭北側下の空堀(内堀)

主郭北側下の空堀(内堀)

主郭北側下の空堀(外堀)

主郭北側下の空堀(外堀)

主郭と二ノ郭へと続く登城道

二ノ郭

二ノ郭北側の土塁

二ノ郭直下(北側)の腰郭

井戸跡とする窪みで空堀と木戸を利用した罠とも

主郭の様子

主郭西側の土塁と虎口

虎口の先には堀を越え櫓台へ続く橋があったとも

虎口から空堀を挟んで櫓台

主郭東側の土塁

主郭北側の櫓台を置いたとされる郭跡

主郭北側の土塁

主郭から土居へ続く空堀

主郭から土居へ続く空堀

二ノ郭の西側腰郭は字「城越」

南の出丸とされる郭跡群

南の出丸付近には建物の礎石が確認されている

南の出丸で櫓台を置いた郭跡

南の出丸の二重空堀は平安時代の物と云われる

南の出丸の二重空堀

南の出丸の大堀切

南の出丸の郭跡周辺でたたら製鉄が行われたとも

南の出丸の郭跡(櫓台)下の袋小路

二の丸にはつツツジ

川堀として利用されたと考えられる金田川

【同好会活動日誌】

先ず、古文書に”小松城”の名称が出てくるのは「出雲千家家文書」の「塩冶高貞軍忠状(出雲国造舎弟貞教軍忠状)」に

以下の記述が見えるわね。

 

「出雲国造舎弟六郎貞教去六月十九日伯州馳向長田城於搦手致合戦忠候

 同月晦日同国馳向小松城大手致合戦忠節候之処若当高木又次郎右足被討候田畢、

 軍御奉行御見知之上者、給御判、為備後証、粗言上如事 建武三年七月 日」

 

千家家文書を要約したものはお城の概要で説明してあるからここでは割愛。

 

他に古い文献だと…伯耆誌 宮谷村の条で

「城跡、村の東の岡なり。五輪塔あれど伝承ならず。」

とあって、城の名前は出てこないけど城跡があった事が記されているわ。

 

同じく伯耆誌 小松村 雲光寺の条で

「馬屋原氏又毛利氏の臣なり」

と、天正年間は毛利氏の家臣、馬屋原氏が小松村を治めていた事が伺えるわね。

小松城の名称を記した古文書は現在のところ千家家文書が唯一らしいので、

伝承としては確かな物と云えそうだけど、情報量としては少ないよね。。。

 

空堀や堀切など遺構の現存具合はもちろん、敵軍の進軍を妨げることを

考え尽くしたかのような複雑な縄張りは伯耆国内でも類を見ない城跡なのに。

確かに現存している遺構は今の状態でも素晴らしいものがあるけど、

小松城の一番の見所といっても過言じゃない空堀は当時、もっと深かったとする説があるそうよ。

 

そんな素晴らしい小松城。

南部町からは史跡指定されているので気軽に訪れることが出来る城跡よ。

城跡が所在する金田集落では近年「ホタルの里」として絶賛売出し中のようで、最初に訪れた時は車での登城は

お勧めできなかったけど、今は立派な駐車場が整備されていたりと、交通のアクセスは格段に向上しているわね。

…ただ、案内板からの道順は相変わらず分かり難いけど。

ちなみに案内板横の説明書きも新調されてたよ。

あたし達が最初に来たときは撤去されてたのに。。。

…せっかく新しくしたなら弓場橋の入り口付近の方に移したらよかったのにね。

最近は「ホタルの里」としても売り出しているようで、僅か2週間程の間に数万人の観光客が訪れるみたい。

夜なので城跡は見えないけど、川堀りとして利用されたと思われる金田川を見て往時を偲ぶのもありかな?