トップページへ
お問い合わせフォーム

HOME > 伯耆古城図録 ~西伯郡篇~ > 松尾城

◆松尾城

※当城は鳥取県立むきばんだ史跡公園(国史跡妻木晩田遺跡)内の非公開エリアに所在しています。

 一般公開はされておらず、十分な安全も確保していないことから無断での登城はしないようお願いします!

 

【 概 略 】

南北朝時代は名和氏が領有し、長田を預かった家臣の荒松氏が所領した城と考えられる。

字名に「松尾城」と見え、山中に松の木が多く茂っていたことから「松生」→「松尾」の字が当てられたとする説、

村上氏(名和氏)の拠点、長田邑の端に立地することから「末尾」の意味で呼ばれた可能性も考えられる。

 

城域は鳥取県立むきばんだ史跡公園の松尾城地区内に所在し、大きく分けて7~8つの郭跡群が確認できる。

(ゴルフ場建設前に行われた調査報告書では7区に分けて調査が行われている)

主郭(7区)から北の尾根(6区)には松尾池側からの侵攻に対する土塁、谷を挟んだ向かいの細い山(5区)に見張台(或いは狼煙台)があり、

松尾池を挟んだ北の山麓には名和氏に関係すると考えられる高さ3メートル程の土塁で囲まれた方形居館跡があったと云われることから、

当城は長田集落の詰めの城であった可能性も考えられる。(方形居館は工場建設により無調査の上に破壊済)

 

塩冶高貞の軍忠状には1336年(延元元年/建武3年)6月19日、出雲国造の伯耆国小松城攻めに際して「伯州長田城」と一文のみ記述が見られる。

 

(出雲千家家文書)

出雲国造舎弟六郎貞教、去六月十九日伯州馳向長田城、於搦手致合戦忠候、同月晦日同□馳向小松城、大手致合戦忠節候之処、

若当高木又次郎右足被討候畢、軍御奉行御見知之上者、給御判為備後証、粗言上如件 建武三年七月 ※□は判読不明だが「国」と推定される。

 

当時の伯耆国小松城の城主は小松氏とされ、小松氏が商品の生産、名和氏が海運など通商を担って勢力を拡大したと云われている。

軍忠状の内容から出雲国造の狙いは物資の生産拠点とされる伯耆国小松城であったことが読み取れる。

小松城の所在した金田にはたたら製鉄に由来する字名や遺物を見ることができ、規模は不明ながら鉄の生産地であったことが伺える)

 

軍忠状の「長田城」が当城であるとすれば伯耆国小松城の攻略にあたり、名和方面からの名和氏の増援部隊を牽制・分断したい思惑もあり、

当時の戦い方では卑怯な戦法とされる「搦手」からの攻撃方法を採用してまでも確実に抑えておきたかった城砦であったと考えられる。

 

1336年(延元元年/建武3年)6月19日に当城は落城、同年6月30日に伯耆国小松城も落城したと云われる。

その後、当城に関しての記述が一切見えなくなることから出雲国造は伯耆国小松城を領有せず、物資を略奪し出雲国へ引き揚げたと考えられる。

 

余談として伯耆国には「長田」と付く地名がもう一ヶ所存在する。

平安時代頃、現在の法勝寺周辺に「長田荘」と呼ばれる荘園が所在し、この長田荘の方が格段に規模が大きく由緒もある土地と云われる。

地理的にも伯耆国小松城とは陸路であれば出雲国と近く、出雲千家家文書に記述される長田城は伯耆国法勝寺城と唱える説もある。

名和氏が元々、長田氏を称していたことから当地が名和氏発祥の地と推す説もある)

 

以後、法勝寺周辺の長田を「長田(会見)」、大山町の長田を「長田(汗入)」と記します。

 

出雲千家家文書に記述される長田城を長田(会見)とする説を唱えるには長田(汗入)に比べると信憑性は限りなく低い。

長田(会見)とする根拠は

・長田(会見)は「長田荘」という由緒のある大規模な荘園であり、長田(汗入)とは規模も歴史も違うこと

・出雲国造の小松城進軍ルート(陸路)上にあること

上記2点でのみである。

 

長田(会見)では建久元年(1190年)10月頃、大舎人允の藤原泰頼が伯耆国会見郡長田の庄得替を願い出て所領安堵の沙汰を得ていると記されており、

後醍醐天皇の時代頃のものとされる鉄鋳仏の光背に「大檀那藤原泰親大願主藤原氏女院主宗賀大工道覚 元応二庚甲四月廿一日」と銘があることから

1320年(元応2年)頃までは長田(会見)周辺は藤原氏が勢力を保っていたことが伺える。

そのため、承久の乱で亡命同然に落ち延びた村上氏藤原氏が治めたと考える長田(会見)を拠点にできる余地は考えられない。

 

また、出雲国から伯耆国小松城への陸路での進軍ルート上に長田(会見)が所在することも仮定の一つに挙がるが、

当時は水路からの侵攻、進軍も多く、陸路が重なるだけの地形判断では決め手に欠ける。

更に余談になると島根県安来市伯太町安田字城山にも「長田城」と呼ばれる要害があり、こちらも出雲国から伯耆国小松城への進軍ルートと重なる。

 

出雲千家家文書に記述される長田城を長田(会見)説とするには判断の基準となる史料・資料はあまりにも乏しいため、

伯耆国の長田城はこの「松尾城」を推したい。

 

仮に出雲千家家文書に記述される長田城を今に伝わる伯耆国法勝寺城(或いは同規模)であったなら堅牢な城砦であったことは容易に想像でき、

搦手から攻めざるを得なかった可能性は考えられる。

 

現在の地理状況から考えると出雲国から伯耆国小松城を狙うには陸路で最短距離であり、その障害になりそうな城砦は伯耆国法勝寺城

考えられることから、陸路での行軍を考えるなら長田城を伯耆国法勝寺城とする説が短絡的に浮かぶ。

伯耆国小松城を領有する気が無いなら名和方面の増援部隊の押さえを考える必要は無く、増援が来る前に物資だけ奪って引き揚げる作戦も視野に入る。

 

ただし、この策を採るのであれば伯耆国法勝寺城を陥としてから伯耆国小松城を陥とすまでに10日程の時間を要した状況の説明が必要となる。

 

部隊の再編成に多少の時間を要するにしても名和氏からの増援がいつ来るかわからない状況の上、奪った物資の搬出時間などを勘定すると

最大限迅速な行動が必要になると考えられるのに、実際のところは大変悠長な動きに見える。

この時、名和長年小松氏は主力を率いて京都へ出兵していたため名和氏の兵力が手薄で増援のないことを知っていたからの展開である可能性も…

 

※現状、出雲千家家文書に一文しか記述が見えない城であるため、各説は推測の域を出ない状態です。

【 遠 景 】

正面が5区、その右奥が7区、左奥が3区

城域が広大なため、区分けの概略図

【 縄張図 】

松尾城略測図

鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)

【 概 要 】

名 称松尾城(まつおじょう)

別 名長田城(ながたじょう)

所在地:鳥取県西伯郡大山町長田(字松尾城)

築城年:不明

廃城年:不明

築城主村上氏(名和氏)

城 主村上氏荒松氏

文 献:出雲千家家文書

形 態:山城

遺 構:郭跡、土塁、土橋、居館跡

現 状:山林(むきばんだ史跡公園内)、工場

種 類:国指定史跡(平成11年12月22日指定)※松尾城としての史跡指定ではない

登城難易度⇒★★★(難しい)

【 地 図(西伯郡内のお城一覧)】

【 年 表 】

年号 西暦 出来事

建武2年

1335年

10月、出雲国守護、塩冶高貞足利尊氏へと寝返る。

建武3年

延元元年

1336年

6月、塩冶高貞(出雲国造軍)による伯耆侵攻が始まる。

6月19日、出雲国造軍の搦手(左方)からの攻撃により落城と伝わる。(出雲千家家文書)

6月30日(晦日)、出雲国造軍によって伯耆国小松城が落城。

その後は当城に関する記述が見えなくなることから名和長年の戦死後、名和氏の没落と共に廃城したと考えられる。

【 写 真 】

<7区>(訪問日:2015/10/26、2015/11/21~22※第一次調査)

主郭と考えられる7区(埋め戻し済)

北側の最上部から7区の郭の眺め

郭中程に見える高まり(土塁)から最上部

最上部は見張台と考えられる

郭跡中程の土塁(南側から)

郭跡中程の土塁(北側から)

北一郭の土橋

北一郭の土橋横に土塁

北一郭の腰郭(古道?)

北一郭の様子

北二郭の様子

北二郭の様子

北一郭から北二郭の様子

北一郭から北二郭の様子

【同好会活動日誌】

平成27年11月22日(日)に行われたむきばんだ探検隊さんとのコラボ企画

「よどえまるごと道草日和(松尾城【長田城】の見方)」で初公開された城跡よ。

 

松尾城地区は非公開地区で普段は立ち入りが禁止されている場所なので、

正式に松尾城跡を探検したのは私たちの企画が初めてなのよ。

おお~1年半以上、探検許可のラブコールを送った甲斐があったね~。

今回のイベントでは素人さんでも見て周れるよう比較的移動が楽な7区だけを紹介させてもらったけど、

更に1区~7区の調査を続けて、来年の第2回イベントでは1区~7区の全てを見て周るイベントができたらいいな~

と、むきばんだ探検隊さんとは良い方向で計画が進行中なのでお楽しみに!

(ちなみに調査では6区以外は見て周ったけど、まさかのカメラ電池切れで一切写真が撮影できず…)

 

あと、基本的に1区~7区まで、調査の入った郭跡は全て表土が剥ぎ取られて調査の後に埋め戻しが行われているので、

現状で目視できる土塁や切岸などは改変の可能性が高いので注意!

今回は第一次調査ということで、引き続き続報を期待してくださいね~。