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HOME > 伯耆古城図録 ~西伯郡篇~ > 野上城 > 同好会活動日誌

◆野上城【訪問日:2013/11/16】 登城難易度⇒★★★☆☆(難しい)

【 概 略 】

伯耆志に古城があったことが記されるが城郭についての資料は乏しく歴史など詳細は不明な点が多い。

城郭と一帯の旧字が「古城山(こじょうやま)」と云われ、砂防ダム建設のための発掘調査によって

城下で戦国時代~江戸時代初めにかけて大規模な鋳造工房が所在したことが判明している。

 

城の直下で鋳造工房が操業していたことから、城主と鋳造師達の間に何らかの関係もあったと思われるが

この時代に当地での出来事を記す資料が殆ど見つかっていないため城郭の歴史同様、不明な点も残る。

鋳造工房では鍋など民生品の生産が主であったとされるが、梵鐘や茶釜の鋳型も見つかっている。

 

江戸時代初め頃、古城山の工房で作業をしていた鋳造師達は忽然とこの地から姿を消したと云われる。

通説での廃城時期は戦国時代と云われるが、鋳造師達が去った江戸時代初め頃の廃城とも考えられる。

 

鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)に描かれた縄張り図にある土橋を伴った堀切以西にも

郭跡や堀切など遺構らしき造作物が存在するとされ、城郭の規模や主郭の位置についても諸説存在する。

【 遠 景 】

集落から三部神社を目指す

地元では三部神社を「大宮さん」と呼ぶ

出丸に鎮座する三部神社への参道

境内北側の杜叢から主郭へと続く

【 概 要 】

名 称野上城(のがみじょう)

所在地:鳥取県西伯郡伯耆町三部

築城年:鎌倉時代

築城主:不明

城 主野上高継野上長龍

文 献:伯耆志、日野郡史、鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)

形 態:丘城

遺 構:郭跡、空堀、堀切、竪堀、土塁、土橋、井戸、櫓台

現 状:三部神社、山林

種 類:文化財指定なし

【 地 図 】

【 年 表 】

年号 西暦 出来事

鎌倉時代

不明

鎌倉時代に築城されたと云われる。

戦国時代

江戸時代

不明

城下では梵鐘や茶釜、鍋などを造る鋳造工房が所在したと云われる。

鋳造に使われた鉄の原料は日野郡(福居?)のたたら製鉄によって

造られた鉄を利用し、鋳型によって鋳造を行ったとされる。

 

江戸時代に入ると武士、農民、職人、商人が農村から離れ始め、

それぞれの身分によって住まう場所へと定着していったこともあり、

江戸時代初め頃、城下から忽然と鋳造師達が姿を消したと云われる。

 

これまでの通説では戦国時代には廃城していたと云われるが、

近年の古城山遺跡発掘調査によって鋳造工房の発見から鋳造の操業が

江戸時代初め頃まで続いたとされることから、廃城時期もその前後では?

とも考えられる。

【 写 真 】

三部神社へ向かう参道

参道の階段

三部神社が鎮座する

地元では「大宮さん」と呼ばれる

三部神社の境内は出丸(三ノ丸)とされる

北側の杜叢から主郭(ニノ郭)へ続く

神社の北側には空堀、土塁が複雑に配置

土塁の東、西にそれぞれ郭跡が残る

※北側にも郭跡が存在したが破壊

土塁と空堀が迷路のように配置される

空堀と左右の土塁

土塁と空堀が迷路のように配置される

空堀と左右の土塁

土塁と空堀が迷路のように配置される

空堀と左右の土塁

土塁と空堀が迷路のように配置される

空堀から土塁

土塁の上部より西側の郭跡

こちらの郭跡は狭い

土塁から東側の井戸のある郭跡

こちらの郭跡と土塁には高低差がある

井戸跡

かなり深く、長く使われたことが伺える

ニノ郭へ続く見事な堀切…

と言いたいが、重機による改変があったと…

ニノ郭と三ノ郭(出丸)との間は

樹木売却の際に重機によって破壊されている

ニノ郭と三ノ郭(出丸)との間

こちらも重機の進入路とされる

改変を受けた場所は調査報告書に記される

出丸北側から曖昧な記載の箇所までとされる

※調査以後に破壊のため名残は残る

ニノ郭から一段下の郭跡

この郭跡にも井戸跡が残る

ニノ郭から一段下の郭跡の井戸跡

ニノ郭

調査報告書では主郭とされる郭跡

ニノ郭は北西から南東に伸びる尾根を利用し

長く細い形状

ニノ郭

ニノ郭の北側土塁

この下には二条の竪堀で防御力を高めている

ニノ郭の北側土塁の上から

ニノ郭北側の二条の竪堀

こちらは西側の小竪堀を下から撮影

ニノ郭北側の二条の竪堀

こちらは西側の小竪堀を上から撮影

ニノ郭北側の二条の竪堀

こちらは東側の大竪堀

ニノ郭と主郭を断つ堀切の土橋

調査報告書では遺構をここまでとしている

堀切に対して配置されたニノ郭西側の土塁

堀切に対して配置されたニノ郭西側の土塁

ニノ郭と主郭を断つ堀切

浅いがかなりの幅がある

ニノ郭と主郭を断つ堀切

ニノ郭と主郭を断つ堀切

ニノ郭と主郭を断つ堀切

主郭と考えられる郭跡

調査報告書では曖昧に記載される

主郭と考えられる郭跡

主郭と考えられる郭跡

主郭と考えられる郭跡

主郭と考えられる郭跡の井戸跡?

猪の寝床の可能性も

主郭と考えられる郭跡西側の堀切

傾斜がきつく深い上に幅もある

主郭と考えられる郭跡西側の堀切

(おまけ)砂防ダム付近に案内板

城の案内ではないが目印に

【同好会活動日誌】

歴史が殆どわからない城の割にはすごい写真の量だよね。

…というか、ココだけ念入りに調べすぎじゃないの?

当初の予定だとさらっと流すつもりだったけど、ここで偶然の出会いがあってね。

 

平成25年の11月頃、城跡麓の三部古城山遺跡から鋳造工房の跡が発見されて、

発掘物の展示を見に行った際に鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)で

野上城の縄張り図を描かれた方と偶然にもお話をさせて頂いたの。

 

歴史についてはやっぱり文献が抜け落ちて解らなかったけど、城跡の遺構に関して

重機で崩された場所や縄張り図に描いていない遺構などを詳しく教えて頂いたの。

それで興味を持ってしまって写真を沢山撮ってきたワケなのよ。

鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)だと主郭とされる部分は

実はニノ郭かもしれないって話だね。

通常だと山城の主郭は一番高い部分にあるそうなの。

(もちろん例外もあるけどね)

 

この野上城だと縄張り図の主郭とされる郭跡から西側に更に高い場所があって、

そこには人の手が加えられたと思われる遺構(郭跡)らしき形跡もあるそうなの。

 

その郭跡と主郭との間には堀切や土橋が残ることから、調査報告書にある主郭と

される郭跡が実はニノ郭じゃないのかな?

と、考えられるワケなのよ。

 

あ、その郭跡から更に西に進むと堀切らしい溝もあったりするので、

三部古城山遺跡の発掘・調査結果と併せて、野上城に関してもこれまで

定説とされてきた城郭の規模などが変わるかも知れないわね。

 

野上城の縄張り図を描かれた方も、描き直したいとおっしゃられていたし…

今後は三部古城山遺跡の発掘品や調査結果からお城との関係も

調べていかれるそうなので続報を乞うご期待!

ってトコロだね。

あ、鋳鉄の材料に日野郡のたたら製鉄でできた粗鉄を原料としたと書いてるけど、

市町村合併で微妙に解りにくくなっているので補足。

 

現在の市町村の区分けの「西伯郡」と「日野郡」では遠くの話っぽいけど、

実のところ合併前の溝口町はかつて日野郡に属していたの。

現在の二部のあたりに福居という地名があって、そこでもたたら製鉄が行われて

いたみたいよ。

 

地理的に日南町や日野町から原料を運んだと考えるよりは福居のあたりから

取り寄せたと考えるほうが自然かもしれないと言う補足でした。