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HOME > 伯耆古城図録 ~西伯郡篇~ > 天守山城 > 同好会活動日誌

◆天守山城【訪問日:2013/12/15】 登城難易度⇒★★☆☆☆(普通)

【 概 略 】

城域が築城時期によって南北に分かれる。

鎌倉時代に築かれた旧城砦と安土時代に天守山へ築かれた新城砦、新旧の城砦を繋げるニノ郭を

あわせた城域をまとめて天守山城と云われる。

 

鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)の縄張り図ではニノ郭に南北の郭跡を区切る空堀と、

西側から旧城砦へと続く枡形虎口(調査報告書では堀切としている)の記載がされているが、

畑地の所有者によって埋められ改変を受けたことは確認しており、遺構の確認をすることは難しい。

(名残と言われるとそれらしくは見える程度に面影は残る)

鎌倉時代築城の南側城郭や天守山へ続くニノ郭は畑地所有者の開墾によって大きな改変を受けているが、

馬車が通れるようにと整備された農道のおかげで天守山の主郭までは労なく到達できる。

 

天守山の主郭は元来、長方形の郭跡であったと因伯古城跡図誌に記されるが、北東を流れる下市川が

氾濫するなどして侵食や崩落が起こり、北東側は抉られ現在の三角形の地形になったと考えられる。

そのため主郭の西側、南側には見事な土塁が残り、主郭への備え(防御の高さ)を感じさせるが

北側、東側には防御施設が一切見られない不自然な主郭の形状となっている。

【 遠 景 】

ニノ郭から天守山

ニノ郭

「長九十間 横六十間」の広さと記載される

◆下市城【訪問日:2013/12/15】 登城難易度⇒☆☆☆☆☆(楽)

【 概 略 】

城域が築城時期によって南北に分かれる。

鎌倉時代、天守山南側の山に築城されたのが始まりとされる。

安土時代になると北側の天守山に新たな城砦が築城され、旧城砦と天守山の新城砦を繋ぐための

ニノ郭の整備も併せて行われたものと考えられ、旧城砦は天守山に築かれた新城砦の出丸(三ノ郭)

として運用されたとも推測される。

 

前述の通り、鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)の縄張り図では、西側から旧主郭へと

続く枡形虎口の記載があったが、現在は埋められ破壊されたことを確認しているが名残は残る。

 

「下市城」の名称は天守山城の別名ですが、築城期が異なるため当企画では別の城として扱い、

旧城砦のみを「下市城」、旧城砦を含めた新城砦を「天守山城」と呼称しています。

【 遠 景 】

南側の遺構は全て改変されたと云われる

段差は遺構の名残?

【 概 要 】

名 称天守山城(てんしゅやまじょう)

別 名:下市城(しもいちじょう)

所在地:鳥取県西伯郡大山町下市

築城年:鎌倉時代(南側)・安土時代(北側)

築城主:不明

城 主:尼子氏…森脇氏

    吉川氏…森脇若狭守

文 献:因伯古城跡図誌、鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)、陰徳記、

    大山町文化財ガイドマップ

形 態:平山城

遺 構:郭跡、堀切、土塁、平入虎口、土橋、空堀(消滅)、枡形虎口(消滅)

現 状:畑地、山林

種 類:文化財指定なし

【 地 図 】

【 年 表 】

年号 西暦 出来事

鎌倉時代

不明

六十間(約108メートル)四方(正方形)の郭を持つ城砦(単郭?)が

築かれたとされる。

安土時代

不明

鎌倉時代に築城された城砦から北方の山、天守山に新城が築城された。

長三十間(南北約54メートル)、横十五間(東西約27メートル)の主郭

天正年間

不明

城主の森脇若狭守は吉川家の家臣であり、吉川元春に付き従い

安芸へ戻ったと云われる。

森脇若狭守の退去と合わせて当城は廃城になったと云われる。

【 写 真 】

ニノ郭は葱畑(収穫後)

天守山への登城口

堀切(二条のうち南側)の土橋

堀切(二条のうち南側)

堀切(二条のうち北側)の土橋

堀切(二条のうち北側)

堀切(二条のうち北側)

南側の土塁と平入虎口

南側の土塁

南側の土塁

主郭の土塁と平入虎口

主郭南側の土塁

主郭南側の土塁

主郭西側の土塁

主郭西側の土塁と虎口

主郭

主郭

主郭の北東崩落部分

南北を分けた空堀跡

南北を分けた空堀跡

南北を分けた空堀跡

旧城砦の枡形虎口跡

【同好会活動日誌】

鎌倉時代と安土時代にそれぞれお城が建てられて、安土時代に新城ができると

これまでにあったお城と合わせて「天守山城」と呼ばれたみたい。

米子城飯山城みたいな感じだね。

地元では歴史に関しての資料は見つからなかったけど、城主の森脇若狭守

吉川家の家臣(吉川元春の配下?)らしいので、ひょっとすると県外(岩国?)の

資料に記載が残っている可能性があるかもね。

ただ、鳥取城に援軍で遣わされた吉川経家の配下にも森脇若狭守が出てきたりと

吉川家の家臣には森脇若狭守と記述される人物が複数名いたりするから、

伯耆の福頼左衛門尉みたく、誰がどの人物やら。。。

 

遺構に関しては鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)を見るだけじゃ

わからないことも地元の方から教えてもらえたのは大収穫。

畑の開墾のために結構壊されちゃったみたいだけど、そのおかげで天守山の

主郭まで難なく辿り着けたのは有難かったわね。

因伯古城跡図誌には図の他に広さも詳細に描かれているけど、

今の天守山の主郭の形って。。。

多分…崩落があったからでしょうね。

福尾城でもそうだったけど、河川を利用した天然の堀を持つお城は近い将来、

崩落によって形を留められないケースが出てくるかもね。

飯山城みたく、地盤が弱いところは川がなくても壊れてるし…

あたし達が生きてる間に伯耆のお城だけはまとめておきたいね。。。