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HOME > 伯耆古城図録 ~境港市篇~ > 鳥取藩台場 境台場 > 同好会活動日誌

◆鳥取藩台場 境台場【訪問日:2013/03/30】 登城難易度⇒☆☆☆☆☆(楽)

現在は公園が整備され市民の憩いの場として利用されている。遺構がほぼ当時のまま残る貴重な史跡。

―概 要―

名 称:鳥取藩台場 境台場(とっとりはんだいば さかい-だいば)

別 名:文久山砲台(ぶんきゅうやま-ほうだい)

築城年:1863年(文久3年)8月から建造が始まり、1864年(文久4年)に完成。

所在地:鳥取県境港市花町

築城主:鳥取藩主・池田慶徳

統括官:鳥取藩士・富山敬蔵

文 献:鳥取藩史、鳥取県史、境港史

遺 構:高さ約7m、幅約40mの三段式台形土塁

武 装:六尾反射炉製 砲台8門(十八斤砲×2門、六斤砲×1門、五寸径砲×5門)※非現存

現 状:公園

種 類:史跡(国指定文化財:昭和63年7月27日指定)

 

背 景:

攘夷思想の高まりと西欧列強の脅威に対し、鳥取藩主の池田慶徳が藩内各重要港湾に建造を命じた

鳥取藩内八ヶ所の台場の一つ。藩内台場の中でも最大の規模と武装を誇った。

現在も旧時の遺構がほぼそのままの形を保つ貴重な史跡であり、昭和63年に史跡として

国の文化財指定を受けている。

 

解 説:

1863年(文久3年)から鳥取藩主、池田慶徳の命により建造が始まり、翌年に完成したとされる。

城郭は松波宏元の設計で西洋式城塞の設計思想を取り入れた境台場は、藩の建造した施設としては極めて

特徴的な台場でもあった。周辺沿岸と中海に通じる航路、境水道入口の防衛を視野に設計された。

城郭については1864年(文久4年)に完成したとされる。

富山敬蔵が設計を行った砲台の設置は、砲術師の武宮丹治と会見郡の大庄屋、山根作兵衛らによって

建造が行われ1868年(明治元年)11月に設置が完了し、武装・城塞をあわせ台場としての機能が

整った意味で完成したと考えられる。

 

鳥取藩の逼迫した財政からは台場建造への費用は捻出できず、民間からの献金と近村の村民・農民の

無償労働・奉仕によって建造が行われたとされる。(協力的・自発的であったと伝わる)

砲台台座の土塁の盛砂は福定村以北の弓浜海岸や鼻東方沖の浅瀬から調達。

土塁の被覆土には高麗山麓の黒土を淀江から船を使い調達したとされる。

礎石となる石や山土は松江藩との交渉で対岸の島根半島から融通してもらったとある。

 

建造に携わった人夫数は延べ33,300余人~45,300余人。(資料によって開きあり)

建築期間にも諸説あるが、弓浜地方の村人を総動員して半年程の短期間で完成させた説と、

近村の豪農・農民の積極的な協力があって1年程で完成したとする説があるが、

ここでの完成は城塞部分のみと思われ、砲台など装備が全て整ったのは明治元年11月と考えられる。

 

完成後は鳥取藩士の富山敬蔵民兵銃取立役として明治初期まで組織を統括したとされる。

守備業務は構大庄屋が引き受け、近村農民で組織した農兵隊が担った。

(当時、農兵訓練所のあった場所は現在、境港第一中学校となっている)

明治維新後は台場もその役目を終え、明治30年に敷地は当時の金505円余(現在の505万円程度

で境町へ払い下げられた。敷地面積は14,300㎡余

明治時代後半の1円は現在の1万円程度の価値があったとされる。

 

種 類:史跡(国指定文化財:昭和63年7月27日指定)

地 図:

―年表―

年号 西暦 出来事

文久3年

1863年

8月、鳥取藩主、池田慶徳の命により建造が始まる。

文久4年

1864年

松波宏元の設計による西洋式城塞の設計思想を取り入れた城郭が完成。

明治元年

1868年

富山敬蔵が砲台の設置を担当し、砲術家武宮丹治と大庄屋山根作兵衛

によって全ての機能をが整った境台場が完成したとされる。

明治30年

1897年

当時の金505円余で境町へ払い下げられる。

―明治以降の出来事―

山陰で最初の灯台

境台場の東北部に建つ白い灯台は明治28年に山陰で最初に建てられた灯台を平成3年に復元した建物。

復元前の灯台は昭和9年の廃灯まで、港入口の安全を守った海の交通遺跡であった。

 

日本海軍史上最大の事故

境台場の東中央部には昭和2年8月24日の夜に美保湾沖で行われた連合艦隊演習中の事故で亡くなった

殉職者の忠魂碑(戦後は慰霊塔と改称)が建立されている。(昭和3年、地元の人たちの手によって建立)

 

この事故は夜間の演習中(悪天候下、暗夜、無灯火で行われた過酷で困難な訓練であったとされる)、

巡洋艦「神通」と駆逐艦「蕨(わらび)」、巡洋艦「那珂」と駆逐艦「葦(あし)」が衝突し、

「蕨」「葦」の乗組員、計120名が犠牲となった日本海軍史上最大の事故といわれる。

―同好会活動日誌―

境港のお台場公園【2013/05/05更新】