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HOME > 伯耆古城図録 ~東伯郡篇~ > 鳥取藩台場 橋津台場 > 同好会活動日誌

◆鳥取藩台場 橋津台場【訪問日:2014/11/01】 登城難易度⇒★★(普通)

【 概 略 】

1863年(文久3年)、鳥取藩主であった池田慶徳の命により鳥取藩内に8箇所建造された砲台場の一つ。

鳥取藩の重要な港の一つ「橋津湊」や「藩倉」を防衛するための施設であったとも云われている。

 

鳥取藩史の「軍制志(三)」に

「当時の設計図として御秘書中に浜坂、由良、赤崎(碕)、上道の略図有り」

と、設計図の所在が記してあるが現在の所在は不明で施設の全体像も不明となっている。

但し、長瀬宿「百六拾弐番字池端」絵図(明治25年)には「旧台場 官有地」として台場の

凡その形が描かれており、設計が武信潤太郎によることからも考えて由良台場と同じような形状で

あったことが推測されている。

 

贈従一位池田慶徳公御伝記(文久3年6月13日の条)には

「御軍式方頭取、岩越次郎兵衛に御両国海岸御備場見分を命じる」とあり、同月17日に瀬戸村の郷士、

武信潤太郎に至ったとある。

同じく贈従一位池田慶徳公御伝記(文久3年10月11日の条)には武装配備の記述があり、

六尾反射炉で製造された18斤砲、6斤砲、3斤砲、5寸径砲の計4門を備えたとされるが、

贈従一位池田慶徳公御伝記(慶応3年8月21日の条)には当時の橋津台場に配置される予定だった

大砲の数は5挺とされており、建造の途中から変動があったことが伺える。

 

1863年(文久3年)、田後の大庄屋、椿岩助と6名の中庄屋により建造が開始され、

同年の早い段階で完成したとされている。

台場の造成には馬ノ山四号墳(前方後円墳)の前方部分の土を崩して運び、築いたと云われる。

火薬倉(蔵)はハナソゲ山の南側に配置され、海からの砲撃に備えたとされる。

 

1864年(元治元年)7月19日に武信潤太郎が砲術教師に任命され(藩政資料控帳)、

1915年(大正4年)12月2日付けで長瀬村へ払い下げられたとある。(新修羽合町史)

 

現地案内板には日本海の波浪による浸食で施設の3割強が流出してしまったとあるが

新修羽合町史に掲載の復元図から考えると流出部分が7割弱、残存部分が2割強程度と考えられる。

砲台を置いたと考えられる砲壇も全て流出しており、東西の土塁の南淵に高見台跡のみが残る。

(羽合町史 前編では高見台跡を砲台跡としているが、新修羽合町史では削除されている)

4基の砲台に対してそれぞれ火薬庫(4基)があったと考えられているが、

こちらも既に流失したとして砲台同様に場所の特定は難しいとされる。

 

長瀬村に払い下げられる以前から台場としての機能は失っていたようで、郭跡などは運動場や

公園として地元の住民に利用されたと郷土資料に記述が見える。

「お台場は大正初期まで小学校の運動会や相撲大会、その他の催しに利用されていたもので、

 当時としては広場の1つであった」(ふるさと橋津)

 

大砲についての詳細は不明だが、撤去の頃には潮風により腐食していたと云われ、由良台場などと

同じく大阪などの商人にくず鉄の価格で売られたと由良宿に言い伝えが残っている。(大栄町誌)

 

羽合町史 前編や鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)など、比較的古い資料では

台場を建造した人物を長瀬の大庄屋、戸崎久右衛門戸崎米蔵の親子であると記述がされていたが、

新修羽合町史など新しい資料では田後の大庄屋、椿岩助と6名の中庄屋による建造と訂正がされている。

(国指定史跡の案内板も同様に訂正されている)

 

在方一手名前記では元治元年6月に橋津御台場締役として10名が任じられたと記述が見える。

橋津御台場締役頭取 田後大庄屋、椿岩助

御用場相勤候節帯刀、御免 伜竹蔵

中庄屋(村名及び部落名は省略)

涌島恒蔵尾崎恵助福井十蔵福井久之丞鳥越権平河原六兵衛秋田兵蔵深田与三右衛門

【 遠 景 】

南側の公園からの遠景

砂浜の部分は新盛土による改変

土塁の切れ目までが台場跡とされる

【 概 要 】

名 称鳥取藩台場 橋津台場(とっとりはんだいば はしづだいば)

別 名橋津御台場(はしづおだいば/はしづのおだいば)

所在地:鳥取県東伯郡湯梨浜町はわい長瀬

築城年:1863年(文久3年)

築城主武信潤太郎椿岩助

城 主椿岩助

文 献:鳥取藩史(軍制志(三))、贈従一位池田慶徳公御伝記、在方一手名前記、藩政資料控帳、

    在方諸事控(明治2年3月27日)、鳥取県伯耆国河村郡長瀬村大字長瀬宿絵図(明治25年)、

    長瀬宿「百六拾弐番字池端」絵図(明治25年)、羽合町地籍図、

    新修羽合町史(平成6年1月31日 羽合町史編さん委員会)、橋津御台場推測復元略図、

    羽合町史 前編(昭和42年10月1日 羽合町史編さん委員会)、    

    ふるさと橋津(ふるさと橋津刊行委員会 国田一夫 1975年)、

    大栄町誌(大栄町誌編さん委員会編 1980年)、

    鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)

形 態:砲台場

遺 構:郭跡、土塁、目隠し土塁、櫓台(高見台跡)

武 装:六尾反射炉製 砲台4門(鉄造18斤砲、鉄造6斤砲、鉄造3斤砲、鉄造5寸径砲 各1門)※非現存

現 状:公園、山林、保安林(防風)、砂浜、日本海

種 類:史跡(国指定文化財:昭和63年7月27日指定)

【縄張り】

鳥取藩台場 橋津台場略測図

鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)

【 地 図 】

【 年 表 】

年号 西暦 出来事

安政5年

1858年

1名の大庄屋と6名の中庄屋による組織分けが行われたとされる。

文久3年

1863年

鳥取藩主、池田慶徳の命により鳥取藩内の各地で台場の建造が始まる。

田後の大庄屋、椿岩助と6名の中庄屋によって当台場は

同年の早い段階で完成したとされる。

元治元年

1864年

7月19日に武信潤太郎が砲術教師に任命され、

橋津御台場締役頭取に田後の大庄屋、椿岩助を始めとした10名の

橋津御台場締役が任命されたとある。

(藩政資料控帳・在方一手名前記)

明治25年

1892年

この頃は官有地とされ、台場も形を明瞭に残していたことが伺える。

(長瀬宿「百六拾弐番字池端」絵図(明治25年))

大正4年

1915年

12月2日付けで長瀬村へ払い下げとある。(新修羽合町史)

払い下げの前後は広場の一つとして地元の住民に利用されたと伝わる。

(ふるさと橋津)

【 写 真 】

東側から郭跡の様子

西側から郭跡の様子

目隠し土塁(画面中央の土盛)

南側の土塁と目隠し土塁

南側土塁の虎口

目隠し土塁

虎口と土塁(西側)

虎口と土塁(東側)

東側土塁の土盛

羽合町史 前編では砲座とあるが

新修羽合町史では訂正(削除)されている

(海に対する防備に砲座を南端へ

配置することは考えにくい)

礎石?

防風壁から南が台場跡

この砂浜は保全のため新たに盛られた部分

ハワイ風土記館に復元模型

ハワイ風土記館から橋津台場の眺め

橋津台場から橋津湊の眺め

―同好会活動日誌―

伯耆のお台場は赤碕台場を除いた全てが「国指定文化財」に指定されているけど

この橋津台場は…ちょっと保存状態が悪いわね。

日本海の荒波によって浸食を受け、南側の城壁土塁と郭跡内の目隠し土塁が

遺構としては残っているだけみたい。

周辺の公園は念入りに整備されていたけど、台場本体はあまり熱心な整備が

されていない印象かもね。

由良台場境台場と同じ感覚で訪れると少々期待はずれ感があるかも。

釣り客には大人気のスポットみたいだけどさ、お台場目的だとね~。

お台場の本体が殆ど削られちゃって残っていないもんね。。。

台場の歴史については新修羽合町史編纂の頃に新たな角度で資料の掘り起しが

あったみたいで、昔からの説とは若干変わっている部分があるようね。

台場を造ったとされる人物(戸崎久右衛門親子から椿岩助)や

台場の全体像(長方形から由良台場や境台場と同じ形)、

砲座(砲台から高見台)や火薬庫の位置など、羽合町史(昭和42年)と

新修羽合町史(平成6年)では内容も大きく変わっているわ。

 

台場の復元模型がハワイ風土記館に展示されていたけど、これもその頃の物かな。

大砲が鉄くずとして処分されちゃったって話は切ないね。

潮風に当たって野ざらしだったら当然だと思うけど。。。