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HOME > 伯耆古城図録 > 伯耆古城図録 ~米子市篇~ > 米子市 > 青木城

◆ 青木城

【 概 略 】

現在の永江団地周辺、青木村の会来山に青木勘解由の居城が所在したとする記述が見える。

1971年(昭和46年)~1977年(昭和52年)、県営住宅団地の造成工事に伴う発掘調査によって弥生時代から古墳時代にかけて栄えた集落の存在は確認されたが、中世城跡に関する発掘成果は記録されていない。

 

米子市教育委員会が発行している「国指定史跡 青木遺跡(鳥取県米子市)」のパンフレットに掲載されている発掘作業途中の写真の1枚に現在の青木遺跡1号地と4号地の間に堀跡と推測される溝跡と、東端に会来山と考えられる小山が見える。

「会来山」の正確な読み方は不明だが、近隣に会見(あいみ)、安来(やすぎ)の地名があることから「あいぎやま」と呼称するのが一般的と考えられる。

永江団地の開発によって城域の殆どは破壊されているが、伯耆志に記述の見える空堀跡と推定される堀状の遺構が青木遺跡1号地に現存している。(発掘調査で改変があったことは考えられる)

 

伯耆志 青木村の条

「村の北際山下にあり。山上字ジャウカと呼びて城跡なり。空隍の形を存して焦米出づることありと云へり。仔細知るべからず。青木勘解由と云ふ人の古墳といへりとも是は伯耆合戦記に因れる妄談なり」

 

青木村は長者原北端部に属し、古城跡は長者原台地西端丘陵部の青木東北高地上に所在したと古老に伝わる。

城砦に関係する字名としては「ジャウカ」「城下」「城下峰」「青木屋敷」「上宮の峰」が見える。

「城下」の字名は隣接する上安曇村にも見えることから、青木村と上安曇村の字城下の間が古城跡と推定でき、城砦の位置について正確な場所を記した文献は見えないが、郷土史に手がかりとなりそうな情報は幾つか見える。

 

尚徳村史(尚徳村史刊行委員会) 青木城の条

「青木村は長者原の北端部に属し西は法勝寺川、西は小松谷川の二つが南北に流れ一円の平野をなす。上古は湖沼多く長江をなすことによって長江村と称す。もと榎の前(小字名)に居住したりしが、中古現在地に移転し青木村と改称す。会木山の城主、青木勘解由の族、青木谷に住し百姓となる。よりて青木村と呼べりと云う」

 

青木村の条 古城跡の件

「古老の伝によれば長者原台地西端丘陵部の青木東北高地上に古城跡在りと。然れども其の位置等確実に認むるを得ず」

 

尚徳村史(尚徳村史刊行委員会) では青木東北高地内に「城下峰」「城下」の字名が残り、古老の話として城跡の塹壕は字「上宮の峰」にある古墳周囲を指し「もし城跡ありとせば古墳の付近ならむか」と語ったとしている。

 

尚徳の歴史と文化財 上安曇村の条 城下の件

「城下は上古、稲置があった地か、あるいは陣屋の跡か定かではない」

 

尚徳の歴史と文化財では字「城下」についての考察がなされている。

 

幡原敦夫氏編纂の「青木城跡」

「現在の青木団地はほぼ中央部、もと生協青木店の東側。その遺跡は団地造成時に消滅し、今は往時を偲ぶことはできない。字「城下」「青木屋敷」が隣接する。手万の峰松山の城主、浅野越中守実光の家臣に青木一族あり。反原(そねはら)青木墓は討死した青木城主の霊を慰めるため一族郎党により建立された供養塔とする」

 

幡原敦夫氏編纂の「青木城跡」では城主、青木勘解由と一族を浅野実光の家臣としている。

伯耆志では伯耆合戦記を創作として、浅野実光という武将も架空の存在としている。

そのため、浅野実光の家臣とする青木勘解由についても架空の人物としているが、反原青木墓の伝承、青木神社縁起書にある社殿造営の経緯から青木勘解由、あるいはモデルとなった人物が実在した可能性は考えられる。

 

村社青木神社縁起書

「当社は天文年間(1532年~1554年)の造営にして、前の国司尼子晴久公信仰厚く、本村会来山の城主、青木勘解由をして米銭若干を寄附せしめしことを記す」

 

新修鳥取県神社誌 因伯のみやしろ 青木神社由緒

「天文7年(1538年)の造営には尼子晴久の命を受けて会来山の城主、青木勘解由が米銭を寄付」

 

青木神社由緒や青木神社縁起書では社殿造営以前から村内の会来山に城砦が所在していたことを伺わせている。

 

城域については会来山を中心とした旧生協周辺が想定されるが、西の法勝寺川を川掘とするなら現在の青木神社程度までが城域とも推測できそうである。

【 遠 景 】

西側(法勝寺川)からの遠望

南側(青木団地)からの遠望

青木遺跡1号地から会来山跡

青木神社からは西に七尾城

【 見どころ 】

青木遺跡1号地の空堀

国指定史跡 青木遺跡1号地の東西に空堀跡のような遺構が残っています。

公園として整備が行われた際に改変があったのかもしれませんが、西側の堀は浅く、東の堀は比較的深く残っています。

1号地と4号地を隔てる道路も見方によっては空堀に見えます。

1号地の東端からは眼下に会来山の所在した場所を見下ろすことができます。

史跡公園として整備されているため気軽に訪れることのできる場所ですが城砦に関する遺構を楽しむとなると少々物足りないかもしれません。

【 概 要 】

名 称青木城(あおきじょう)

別 名:会来山城(あいぎやまじょう)

所在地:鳥取県米子市永江、鳥取県米子市青木

築城年:不明(天文年間(1532年~1554年)以前)

廃城年:不明

築城主:青木氏?

城 主:(尼子氏)青木勘解由

形 態:山城(推定)

遺 構:空堀

現 状:青木遺跡、住宅地、商業地

種 類:国指定史跡(昭和53年3月22日指定)※青木遺跡として

【参考文献】

・伯耆志・伯耆合戦記・伯耆闘戦記

・天満鎌倉山合戦記(昭和44年1月発行)

・国指定史跡 青木遺跡(米子史教育委員会)

・尚徳村史(昭和3年頃:尚徳小学校編)

・尚徳村史(平成9年3月:尚徳村史刊行委員会)

・青木城跡(幡原敦夫 編纂)

・尚徳の歴史と文化財(平成11年2月:尚徳公民館)

・新修鳥取県神社誌 因伯のみやしろ(平成24年6月 鳥取県神社誌編纂委員会)

【城娘】

【 縄張図 】

存在せず

【 地 図 】

【 年 表 】

年号 西暦 出来事

縄文時代

不明

弥生時代

不明

古墳時代

不明

天文7年

1538年

昭和46年

昭和52年

1971年

1977年

県営住宅団地の造成工事に伴う発掘調査が始まる。

発掘調査の終了後、永江団地、青木団地の開発により遺構の殆どは消滅した。

【 写 真 】(訪問日:2016/12/03)

青木遺跡の案内板

青木遺跡の案内板

青木遺跡(1号地)

青木遺跡(1号地)東側の空堀

青木遺跡(1号地)東側の空堀

青木遺跡(1号地)西側の空堀

青木遺跡(1号地)西側の空堀

H42号墳(箱式石棺)標柱

H42号墳(箱式石棺)

H42号墳(箱式石棺)

旧生協

旧生協

旧生協

旧生協の東側段差

旧生協の東側

青木神社の鳥居

青木神社の社殿

青木神社の郭跡

青木神社の郭跡

青木団地裏側の小祠