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◆ 米子城(内膳丸)

【 概 略 】

伯耆国米子城の主郭から北側に下った丸山に所在する。

古くは山名に由来する丸山砦との呼称も見えるが、慶長年間に米子城と併せて横田村詮が改修を行ったことを由縁に内膳丸の呼称が一般的となっている。

 

縄張は西側の中海側には横矢、北側の湿地帯には亀島(現在の清洞寺岩周辺)を前線水軍基地とした防御が意図されており、横田村詮が改修を行う以前より重要な城砦の所在が推測されることから丸山に所在した城砦が米子城の前身、伯耆国飯山城と仮定する根拠の一つとする。

横田村詮の改修により武器庫(武器、火薬など)と見張櫓が配置され、横田氏が管理を担ったとされる。

 

南方向には米子城の主郭北側直下の遠見張へと登り石垣で接続され、東側には山下通路によって二ノ丸との連携が図られている。

一部の絵図では登り石垣は遠見櫓まで繋がらず意図的に切った作図が成されていることから、門跡、或いは誘引のための袋小路が設けられていた可能性がある。(武者溜まり、或いはどん詰まりと考えられる平場が見える)

 

1603年(慶長8年)、横田村詮の暗殺を発端にした米子城騒動(横田騒動)が勃発し、横田方の籠もった飯山城は騒動の後、見せしめとして徹底的に破壊されたと推定されているが、米子城の絵図を見る限り当城の施設の一部(櫓、土塀)は江戸時代後期まで存続していることがわかる。

飯山城(采女丸)の破壊は後の見せしめではなく、横田氏の政敵で暗殺の黒幕とも云われる野一色氏への報復として騒動の最中に破壊されたことも仮定できる。

 

続いて丸山を飯山城と推定する根拠には以下を挙げる。

 

① 1471年(文明3年)の境松合戦の撤退戦からの考察。

境松合戦に敗れた伯耆山名氏の軍勢が当城へ退却し立て籠もったことが記されている。(出雲私史・出雲私記)

丸山は陸上城域の北限・西限に立地しており、北の湿地帯に対しては亀島を前線の城砦、或いは緩衝帯として利用が出来る。

西の中海方面(海上)からの追撃に対しても出山との連携を維持できる限りは深浦側の防御も取りやすい。

逆に飯山城へ籠もり、丸山を敵方に取られた場合、深浦の港は押さえられ、亀島、粟島、萱島の諸港との連携も絶たれ、陸上の橋頭堡まで与えてしまうこととなり戦術的には下策となる。また、海路からの援軍が封鎖されることで士気の低下も避けられない。(出雲勢に連戦連敗したことを考えると指揮官の能力が足りず無策で飯山城へ籠もった可能性も考えられるが…)

 

② 西側の登り石垣と城代、古曳吉種の存在。

湊山(お立山)への米子城の築城以前、永禄~天正年間頃は吉川氏の代官として古曳吉種が6万石(3万石の異説あり)を拝領し飯山城に在城している。古曳吉種は築城の名人とされ、前任地の伯耆国石井城石井要害)では周囲に水濠を配した水砦を、伯耆国戸上城では日野川水系の法勝寺川(尻焼川)を川濠に利用し、東側の丘陵に登り土塁を配した水濠城砦を築いている。(牧野家文書などより推測)

石井城戸上城で培った登り土塁など海城の技術を飯山城(現在の米子城)へ取り入れ、中海側(西方)の防衛力強化に利用したことが推測される。(古曳吉種は文禄の役にも参加していることから、朝鮮半島に残る倭城の登り石垣は古曳吉種が考案した可能性が非常に僅かながらでも考えられないだろうか?)

登り土塁が後に朝鮮より撤兵した吉川軍、或いは更に後の横田村詮の改修により登り石垣へ変化した可能性も考えられる。

 

豪円がお立山を湊山と名付ける以前は飯山、丸山、出山の全てを総称して飯山と呼称した。

豪円(当時は円智を称する)が湊山を命名するまで丸山も飯山と呼ばれたため、当城域を「飯山城」と呼称することができる。

お立山は古来より入山が制限・禁止された山であり、古曳吉種が築城を始めるまで現在の米子城の主郭周辺(湊山)に本格的な城砦が所在したとは考えにくい。

①で記述のように戦略拠点としての立地を鑑みると中海方面に対する海城としての機能を集中する場合は当城が適当と推測される。

 

④ 1575年(天正3年)6月の中務大輔家久公御上京日記では米子の町から城郭が確認できなかったことが判る。

中世の山城は比高の一番高い場所に主郭を置くのが一般的とされる。

定石に倣えば当城が所在した丸山は現在の飯山や湊山に比べ比高は低いため、内膳丸に主郭を置いたとする仮定は否定される。

しかし③で記述の通り、湊山については入山禁止であったため、引き続き城砦が所在した可能性は低い。

飯山については1575年(天正3年)~1591年(天正19年)にかけて新たな城砦の築城が考えられるが岩盤地質の性質上、飲み水の確保、物資運搬の接続の悪さに課題が残る。

湊山は凡そ内膳丸程度の高さからは湧き水が至る所から湧き出る。

また、兵糧庫は現在の二ノ丸(三ノ丸の説もあり)にあったとされるが、当城からは東の山下通路を通れば難なく二ノ丸を抑えることができる。

 

⑤ 米子城騒動(横田騒動)で中村方の兵だけでは鎮圧できなかった⇒予め武器庫を押さえられたか?

「徳川実紀」及び「藩翰譜」では米子城騒動で横田方は飯山に籠もったと記述が見える。

④で記述の通り、飯山城に籠もった場合、将兵の質と数、武具兵糧の物量で勝る中村方が鎮圧できない理由が乏しくなる。

冬であり、兵糧も二ノ丸(或いは三ノ丸)に備蓄されていたことを考えると、二ノ丸、三ノ丸との接続の悪い飯山では相当の事前準備を講じなければ籠城戦はままならない。

当城には横田氏の管理する武器庫があったとされている。横田村詮の暗殺後、横田方の動きは素早く、中村方の兵だけでは鎮圧が出来なかったとするなら、先ずは武器庫を制圧したことが推測される。

米子城の天守にも幾許かの武具や銃砲は備えていたはずだが火薬まで置くことは考えられないため制圧能力が失われていたことが考えられる。また、二ノ丸の兵糧庫へは当城から射撃の範囲内であり、武器庫だけでなく兵糧庫も押さえられ継戦能力を殺がれていた可能性も推測される。

 

飯山城横田村詮の政敵、野一色采女の居館(采女丸)

中村家の家臣、野一色采女が居館を置いたことから飯山城は別名に采女丸と呼ばれる。

中村一忠が伯耆国入りした1600年(慶長5年)頃、米子城周辺は松林で大名が住まうに相応しい居館は存在しないとしていることから采女丸と呼ばれる施設が完成するのは慶長5年以降と推測できる。

(一部の説に吉川広家の居館が建造され、岩国転封の際に破却されたとする説もある)

米子城騒動では横田方が飯山城(采女丸)に立て籠もったとしているが、一説に野一色采女横田村詮の政敵と云われ、騒動の発端となった暗殺事件の黒幕ともされている。

横田方は野一色采女の居館に拠って中村方を退けた。という形になるが、勝手の判らない城館に籠もり戦い続けるなら野一色氏の一族を人質に取ったことも考えられる。(但し、野一色采女は中村氏にも恨みを持っていたことが推測されている)

米子城騒動以降、絵図に建物の建造された形跡が図示に見えないことから、定説では横田方が籠もり叛乱を行った見せしめに破壊・放棄されたとしている。

見方に拠っては、叛乱の際、横田氏の報復によって徹底的に破壊されたと考えることも出来る。

 

上記等の考察を以って、往古の飯山城を内膳丸と見立てる説としたい。

但し、上記考察も別面から見れば大方を覆すことが可能なため、今後も真偽問わず闊達な議論が深まることにも期待したい。

【 遠 景 】

米子城の主郭からの遠望

登り石垣の門跡

登り石垣の門跡

登り石垣の門跡

【 見どころ 】

内膳丸から延びる登り石垣

内膳丸の西側の石垣から米子城の主郭北側直下にある遠見櫓まで石垣と土塁が続きます。

石垣が尾根伝いに高さを上げていく形状から「登り石垣」と呼ばれます。

用途としては上層と下層の郭を繋ぐ防壁と通路を兼ねた施設となります。

元来は土盛だけの「登り土塁」があったと考えられ、伯耆国戸上城には似た規模の登り土塁と考えられる遺構が残ります。

石垣は登るにつれて不明瞭となりますが、江戸時代の絵図を頼ると、高低差の表現が乏しい絵図では遠見櫓と繋がる図示、高低差を表現した絵図では繋がっていない図示が見受けられます。

吉川広家が岩国へ移る際、後任の利になるからと頂部を破壊したとする推察もあるようですが、吉川広家が米子城に在城した記録は無いためこの説は空想の域をでません。

西側の横矢

内膳丸は周囲を石垣で囲んでいますが、西側の石垣だけは鍵状に段々となっています。

これは「横矢」「横矢掛(よこやがかり)」と云われる形状で、侵入してくる敵に対して正面と側面の両面から弓矢や鉄砲を射掛けることが可能となり、射撃範囲の拡大と死角を減少させる効果を持たせています。

この形状は西側にしか見ることが出来ないため、内膳丸が特に中海側からの襲撃を意識して備えられた城砦であることが解ります。

石垣の状態も良いので、天守台に登る前にぜひ見学してもらいたいです。

【 概 要 】

名 称米子城 内膳丸(よなごじょう ないぜんまる)

別 名:丸山砦(まるやまとりで)、飯山砦(いいのやまとりで)、飯山城(いいのやまじょう)

所在地:鳥取県米子市久米町

築城年:1467年(応仁元年)頃 ※異説は多々あり

廃城年:不明

築城主山名宗幸古曳吉種横田村詮(推定される人物)

城 主:(吉川氏)吉川広家古曳吉種(中村氏)横田村詮横田主馬助

形 態:海城

遺 構:石垣※、登り石垣、郭跡、切岸、虎口 ※1982年(昭和57年)~1984年(昭和59年)にかけて石垣の修復を実施

現 状:山林、丘陵、公園

種 類:史跡(市指定文化財:昭和52年指定、国指定文化財:平成18年1月26日指定)※米子城跡として

【参考文献】

・伯耆志・伯耆民談記・中村記

・泉州堺広普山妙國寺2世日統上人本尊(慶長7年)

【城娘】

 

【 縄張図 】

内膳丸略測図(米子城略測図より抜粋)

鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)

【 地 図 】

【 年 表 】

年号 西暦 出来事

応仁元年

1467年

天正3年

1575年

永禄12年

天正20年

1569年

1592年

慶長3年

1598年

慶長6年

1601年

慶長7年

1602年

慶長8年

1603年

寛文7年

1667年

明治13年頃

1880年頃

石垣を残して全ての建造物が取り壊される。

【 写 真 】(訪問日:2013/03/23、2016/09/24、2016/10/10、2017/11/05、2018/11/24)

登り石垣の門跡(内膳丸側)

登り石垣から内膳丸

登り石垣の門跡から内膳丸

登り石垣(内膳丸側)

登り石垣(内膳丸側)

登り石垣(内膳丸側)

内膳丸の南三段目

内膳丸の南三段目

内膳丸の南三段目

内膳丸の南二段目の石垣

内膳丸の南二段目の石垣

内膳丸の南三段目の虎口

内膳丸の南二段目

内膳丸の南二段目の虎口

内膳丸の南二段目の虎口

南二段目虎口から山下通路

南二段目虎口から山下通路

内膳丸の主郭

内膳丸の主郭

内膳丸の主郭

内膳丸の主郭

内膳丸の主郭から米子城の本丸

西側の横矢と腰郭

西側の横矢と腰郭

西側の横矢と腰郭

西側の横矢と腰郭

西側の横矢と腰郭

東側の石垣と腰郭

東側の石垣と腰郭

東側の石垣と腰郭

東側の石垣

東側の石垣

東側の石垣と腰郭

清洞寺岩(伝・亀島)

清洞寺岩の五輪