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HOME > 伯耆古城図録 ~米子市篇~ > 七尾城 > 同好会活動日誌

◆七尾城【訪問日:2013/05/18】 登城難易度⇒★★★(難しい)

    【再訪問日:2014/05/18】 登城難易度⇒★★(普通)※地元有志が整備を行ったため

【 概 略 】

鎌倉時代、伯耆国尾高城を本拠地として勢力を誇った伯州衆、行松氏によって築城されたと伝わり、

伯耆国尾高城に拠った行松氏の支城のひとつで北に所在した石井要害(石井城)の詰め城として

運用されたと考えられている。

伯耆民諺記などに記される1524年(大永4年)の大永の五月崩れでは行松氏の本拠地である

伯耆国尾高城が落城すると、行松氏の一族で行松源太兵衛が拠った当城も放棄されたと云われる。

 

西の山麓に鎮座する阿陀萱神社の縁起によると1523年(大永3年)、既に尼子経久からの寄進が

行われており、大永の五月崩れよりも以前に当地が尼子氏の支配下にあったことを伺わせるが、

城跡からは焼米が見つかったと地元の資料に記述があり、戦によって落城した可能性も考えられる。

 

1562年(永禄5年)、毛利氏の支援を受けた行松正盛は尼子方から伯耆国尾高城を回復し、

38年振りに伯耆国尾高城の城主へ返り咲くが、当城に関する記述は見られない。

(城主であった行松源太兵衛は若狭の小浜で戦死したと云われる)

 

宝石山(かつては三笠山と云われた)の山頂(字要害)からは七つの尾根が延びており、

主郭から各尾根伝いに連郭式の郭が展開していたと考えられ、その形状が主郭より七つの尾を

ひいたような形状だったことから「七尾城」と云われる。

別名で「宝石城」と呼ばれるのはその昔、天から三つの大石が降ってきたという伝説から

名付けられたと伝わり、城下に橋本村が所在していたことから「橋本城」とも呼ばれる。

「橋本」の由来は集落南の街道にかつて石橋(字石橋上、石橋下)が掛かっていた事が由来とされる。

 

宝石山の名称の由来にも「神代の昔、宝石天降り一夜の中に出現せし故、この山を宝石山と称す」

とあり、その時に降ってきた宝石とされる3つの巨石が現在も橋本集落内に現存する。

 

主郭には大山へ向いた鳥居があったと云われ、現在も鳥居の礎石跡が残り、

かつては神社、あるいは寺院が存在したことも古老の話に伝わっている。

 

1818年(文政元年)、鳥取藩の調査で因伯古城跡図志に描かれ、伯耆誌の挿絵にも石井要害とあわせて

描かれている。

【 遠 景 】

標高108mの宝石山

山頂に城砦、あるいは居館があったとされる

宝石山から切通を挟んだ西側の山頂にも郭跡と

四つの尾根にはそれぞれ連郭式の郭跡が所在する

【 概 要 】

名 称七尾城(ななおじょう)

別 名:宝石城(ほうせきじょう)、橋本城(はしもとじょう)

所在地:鳥取県米子市橋本

築城年:鎌倉時代

築城主行松氏

城 主:伯耆山名氏…行松源太兵衛

    尼子氏…不明

    吉川氏…不明

文 献:伯耆志、阿陀萱神社縁起、因伯古城跡図志、新修米子市史第12巻資料編絵図・地図

形 態:連郭式山城

遺 構:郭跡、竪堀、切岸、堀切、土塁、土橋、虎口、枡形、礎石跡、井戸跡

現 状:山林

種 類:史跡指定なし

【 地 図 】

【 年 表 】

年号 西暦 出来事

鎌倉時代

不明

伯耆国尾高城を本拠地として勢力を築いた伯州衆、行松氏によって

宝石山(三笠山)の山頂に城郭、あるいは居館が築かれたとされる。

大永年間

不明

伯耆国尾高城の城主、行松正盛の支城であったとされる。

行松源太兵衛が城主を任され、阿陀萱神社への寄進を行ったと伝える。

大永3年

1523年

出雲国月山富田城の城主、尼子経久から阿陀萱神社への寄進が

行われたと伝える。

尼子経久からの寄進が行われている事から、大永の五月崩れ以前に

周辺地域が既に尼子氏の支配下、影響下にあった可能性も伺える。

大永4年

1524年

尼子氏の侵攻(大永の五月崩れ)により伯耆国尾高城が落城。

行松正盛は領地を放棄し国外退去し、当城も放棄された。

家老の野口某は橋本の地に残り帰農したと伝えられる。

慶長6年

1601年

阿陀萱神社へ伯耆国米子城の城主、吉川広家からの寄進が

行われたと伝える。

この後、吉川広家は岩国へ転封のため伯耆国米子城を去った。

【 写 真 】

西の山麓に鎮座する阿陀萱神社

阿陀萱神社の天井には古曳吉種の子孫

古曳秀信(盤谷)の奉納絵が残る

「宝石城」と呼ばれる所以となった巨岩の一つ

橋本集落に残り二つも現存する

橋本集落北西に埋まる三つの「宝石」の一つ

橋本集落からの登城口

道中には神主屋敷跡と伝えられる場所も

神田(じんでん)と伝わる場所

南西郭跡群への道

南西郭跡群への道中には神主墓地

神主墓地には二基の墓碑

南西郭跡群の堀切

南西郭跡群の土塁

尾根南の連郭式郭跡(三段)

尾根南の連郭式郭跡最上段

この郭跡には土塁が築かれている

東の連郭から主郭への登城道

東側からの登城道には礎石跡も

東二ノ郭の枡形

東二ノ郭の虎口

東二ノ郭の虎口の土塁

東二ノ郭南側の土塁

この奥から主郭へ続く道がある

東一ノ郭

主郭の様子

主郭から西一ノ郭

主郭の礎石(落石用の大石?)

主郭から東一ノ郭の切岸

主郭東側切岸の礎石

西一ノ郭

主郭から西一ノ郭

主郭から西一ノ郭の切岸

西二ノ郭

主郭に残る鳥居の礎石跡

西二ノ郭の井戸跡

主郭からの眺め(西側)

主郭からの眺め(北側)

木々の間から石井要害も見える

―同好会活動日誌―

七尾城には2つの別名があって、

一つはお城跡が残る地名の橋本から取った橋本城

(橋本村の南側の街道に石橋が掛かっていた事が由来みたい)

もう一つは西の山麓にある阿陀萱神社の鳥居前にある大岩が所以で、

城跡が残る山が”宝石山”と云われるから宝石城と呼ばれるみたいだよ。

こちらの七尾城と関係ないけど、お隣の島根県にも七尾城(石見国)があって、

あちらは国指定の史跡で規模も手入れもこちらとは比べ物にならないわね。

あ、石川県にも七尾城があるそうで、こちらも国指定の史跡とか。。。

 

橋本城も鳥取県内だけどお隣の国、因幡国に橋本城があったりと、

なかなか名前だけでは個性を発揮できない不憫なお城よね。

神社の前の大岩は隕石と云われてるけど、どこから持ってきたんだろうね~。

あれだけのサイズが落ちてきたなら県内の何処かには相当なクレーターが

残っていると思うんだけど。。。

隕石の話は限りなく胡散臭いけど…一番個性が出そうな呼び方は宝石城かもね。

 

で、お城の歴史はどうなってるの?

城主の行松源太兵衛の足取りと家老の野口某の存在が唯一城に関する情報かな。

城とは関係ないけど社司の山川検校豊臣秀吉の戦勝祈願の際、父の死により

秀吉に出仕できなかったため神領を没収された話や、古曳吉種の子孫、古曳秀信

まつわる話が地元には残っているみたい。

ちなみに七尾城って

「鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)」

には載っていないんだよね?

「鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)」には記述がないけど、

米子市埋蔵文化財課が調査を行った際に縄張り図は作成されているそうよ。

…ただ、かなり怪しい部分があるそうで、調べなおさないといけないという話も。

埋蔵文化財課の縄張り図だと西の山にも郭跡が配置されているようなので、

こちらも機会があれば探検してみたいね。

最初は情報が全く出てこないから諦めていたけど、調べていくと出てくるものね。

せっかくなので阿陀萱神社の縁起から城との繋がりを見てみましょうか。

 

先ずは神社の読み方…

「阿陀萱」と書いて「あだかや」と読むけど、「あびだ」とも読めるそうよ。

「阿陀加夜」から来てるので、地元では「あだかや」と読む方が多いわね。

 

古事記とも縁のある神社で祀られているのは「多岐喜姫」

案内板に書かれていることを転載するけど…

 

712年、古事記によれば大国主命は大勢の兄神様と一緒に八上姫へ求婚のため、

因幡国への途次、因幡の白兎を助けた縁で結ばれ、出雲の直会で多岐喜姫が

生まれ給う。因幡国へ里帰りの途中、多岐喜姫は榎原郷橋本邑の榎の俣に指を

挟まれ、此処にとどまり鎮守神として祭祀された。

 

阿陀萱神社由緒書には、合祀の宗像神社祭神を735年(天平6年)9月15日、

安芸国厳島神社より勧請の記述あり。

 

古事記のパートはココまで。一部端折ってるので原文じゃないのでご了承を。

なんだか小難しい話だけど…要は「多岐喜姫」さんが橋本村の榎木の幹の俣に

うっかり指を挟まれてそのまま居座って祀られた。ってこと?

そこまで間抜けな話では無いと思うけど…一読するとそんな感じよね。

恐らく当時の人にしか解らない比喩で書かれているとは思うけど、

もう少しマシなドラマがあったということしてあげましょう。

 

続いて中世のパート。私達の本命はこっちね。

 

七尾城(宝石山山頂)の守護神として篤く崇敬され、

大永年間(1521年~)行松源太兵衛城主、出雲富田城主尼子経久侯(1523年)、

米子城主吉川広家侯(1601年)より寄付あり、依って神領地も多く、

瑞光山清水寺地蔵院(安来市)が当社の別当を勤め、長らく祭祀厳重なり。

 

この部分が七尾城についての記述。

 

城主に行松源太兵衛という人物がいたこと、1601年まで吉川広家米子城

城主であったことが記されているわね。

中村一忠が1600年に伯耆国領主に任じられているんだけど、尾高城から米子城

移るまでの間、名目上吉川広家が米子城主だった。という解釈かしら?

吉川広家がいつまで米子の城主だったのか…少し興味深い記述だね。

残りは神社についての記述。

 

神社創建の年代不詳なれど、古くより阿陀萱大明神と称し、

榎原郷八ヶ邑(はっけむら)の鎮守神であったが、

現在は榎原、吉谷、古市、橋本の氏神様として祭祀継承されている。

(近世では橋本、今、古市、榎大谷の産土神で、鳥居には榎原郷大社とある)

 

以上で案内板の転載終わり。

ここで「吉谷」と「古市」の地名が出てくるけど、古市にもお城があったと

伝える書籍があったりするのよ。

 

…まあ、この地は毛利と尼子の激戦地なので、どの山にも城や砦があったと

云われるけどね。

最後は古事記が好きな人向けの阿陀萱神社に祀られている祭神の一覧ですよ。

阿陀萱神社までなら普通に辿り着けると思うから、古事記に興味がある人は

足を運んでみるといいかもしれませんよ!

 

主祭神

阿陀加夜奴志多岐喜比売命(父神大国主命、母神八上姫命)

祭神

宗像大社祭神(市杵島姫命、田心姫命湍津姫命)

大山祗命(山を司る神、八重垣姫の祖父神)

素戔鳴命(熊野大社祭神)

誉田別命(八幡宮祭神)

武内宿禰命(因幡国一宮、宇倍神社祭神)

八ツ耳命(神武天皇の皇子)

宇迦之御魂命(稲荷大社祭神)

え~っと、神社側から城跡への登城は大変危険ですので~

猪さんも出ますから~山に不慣れな方は登らないほうが賢明ですよ~